【韓国】在日韓国人は、李承晩による済州島大量虐殺から逃げてきた人が殆ど。李承晩は、その大量虐殺を隠そうと反日教育を開始
ちぢれ麺 (@RamenReiwa)さんが6:35 午後 on 水, 12月 11, 2019にツイートしました。
反日
上念司「李王室を返そうとしたら拒否したのが李承晩政権。そして反対派を弾圧、有名なのが済州島四・三事件。在日の人達はそこから逃げてきた人がほとんど。
その人達に特別永住権を与え、子や孫も住んでいいとやったのが日本。この弾圧は日本のせいだと無茶苦茶なロジックで正当化し反日教育」
https://twitter.com/RamenReiwa/status/1204696221694058497?s=03
動画
https://video.twimg.com/ext_tw_video/1204696062813855744/pu/vid/640×360/KAnnP9voMtq6tCMa.mp4
済州島四・三事件 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%E5%B7%9E%E5%B3%B6%E5%9B%9B%E3%BB%E4%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
1948年に入ると、南朝鮮当局が南側単独選挙を行うことを決断し、島内では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。
その中で、単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起が4月3日に起こった。警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者が出た。
済州島民の蜂起に対して、韓国本土から鎮圧軍として陸軍が派遣されるにあたり、政府の方針に反抗した部隊による反乱が生じ(麗水・順天事件)、韓国本土でも戦闘が行われた。
この混乱により済州島の住民を中心に、戦闘から逃れて日本へ渡る者が多数生じ、これが在日朝鮮・韓国人の先祖の多くを占めるともされる。
済州島では韓国軍などにより蜂起したものは弾圧されたが、人民遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。
これは、8月15日の大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。
韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺したと言われている。
1948年9月に金日成は朝鮮統一国家を標榜する朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。1949年12月24日には、朝鮮半島南側で韓国軍は住民虐殺事件(聞慶虐殺事件)を引き起こし、共産主義者による犯行であると情報操作した。
1950年に米軍から朝鮮半島を解放すべく朝鮮人民軍が進撃し朝鮮戦争となると「朝鮮労働党党員狩り」は熾烈さを極め、1954年9月21日までに3万人、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。 また、保導連盟事件が起きると本土と同様に刑務所で1200人が殺害された。海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている。
歴史的に権力闘争に敗れた両班の流刑地・左遷地だったことなどから朝鮮半島から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。
韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。
日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難し、そのまま在日朝鮮人となった人々も多い。
日本へ逃れた島民は大阪市などに済州島民コミュニティを形成したが、彼らは済州島出身者以外の韓国・朝鮮人コミュニティからは距離を置いた。
済州島では事件前(1948年)に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる。
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