近年、その独特な歌声で多くのファンを魅了する女性声優による楽曲が、日本の音楽シーンで確固たる地位を築いています。特に人気アニメ『ラブライブ!』シリーズから生まれた3人組ユニット「AiScReam」が「紅白歌合戦」への初出場が内定したというニュースは、大きな話題となりました。しかし、その歌声には、一聴して「アニメ声優の歌だ」と識別できる、ある種の「幼さ」が伴うことが少なくありません。本稿では、この特徴的な女性声優の歌い方について、単なる個性の範疇を超え、その背景に潜む文化的・社会的な問題を批判的に考察します。
AiScReamから考える「幼い発声」の根深さ
「愛♡スクリ~ム!」がSNSで大ブレイクし、その勢いのまま「紅白歌合戦」出場が報じられたAiScReam。多くの人々が彼女たちの活躍を称賛する一方で、筆者は初めて彼らの楽曲を聴いた際、その歌声が「もろにアニメ声優の歌」であることに、ある種の既視感と驚きを覚えました。この、いわゆる「幼い発声」が、この30年間ほとんど変わらずに通用する文化が依然として存在しているという事実に、改めて考えさせられます。
かつて、スタジオジブリの宮崎駿監督も、著書『ジブリの教科書3 となりのトトロ』の中で、声優の発声について手厳しい意見を述べていました。「特に女の子の声なんかみんな、『わたし、かわいいでしょ』みたいな声を出すでしょ。あれがたまらんのですよ。なんとかしたいといつも思っている」と。AiScReamの歌声にも、宮崎監督が指摘したこの「たまらん」という感覚を呼び起こすものがあります。では、その発声がなぜそのような印象を与えるのでしょうか。
その理由は、発声が表すイメージの極端な狭さ、そして「幼さ」の過剰な圧縮にあります。AiScReamをはじめとする多くの女性声優によるアニソンでは、声を上顎にぶつけ、高音を狭く小さく圧縮することで、意図的に幼さを強調する歌い方が見られます。これにより、「可愛い」という感情が極端に記号化され、表現の幅が限定されてしまうのです。これは、例えるならば、中国の纏足のように、いびつな小ささと丸みを強いられた女性像が声に表れているかのようです。こうした過度に限定された発声こそが、アニメソングにおいて一部の聴衆が抱く大きな違和感の源泉となっています。
女性声優ユニットAiScReamの『愛♡スクリ~ム!』ミュージックビデオからのイメージ
「幼い声」が求められる背景:男性側の需要と社会のデフォルメ
しかし、このような独特の「幼い発声」は、女性声優たちだけが独自に生み出した表現ではありません。その背後には、社会からの根強い需要が存在しているからです。これは、アニメやアイドル文化を消費する男性側の問題でもあると考えるべきでしょう。
この圧縮された「可愛さ」がテンプレートとして定着した背景には、女性的なぬくもりを手軽に、そして安価に消費したいという男性側のニーズが深く関係しています。このような市場の需要が、特定の発声メソッドを生み出し、それが商業的な成功パターンとなれば、さらなるビジネスチャンスが生まれるのは自然な流れです。結果として、女性声優たちの発声スタイルは、知らず知らずのうちに「媚び」の色合いを帯びるようになります。そして、「媚び」の競争が激化する中で、女性性のデフォルメはさらに加速し、ますますいびつな形が賞賛されるという悪循環に陥ってしまうのです。
このため、アニメに全く詳しくないような一般の聴衆でさえ、一度耳にすれば「これは声優の歌だ」と即座に判別できてしまうほど、その歌声は強く類型化されています。もちろん、声優という職業を全うする彼女たちに非があるわけではありません。しかし、もう少し俯瞰的な視点からこの構図を見たとき、このような状況を放置しておくことが、果たして文化として健全であるのかどうか、私たちは深く留意する必要があるでしょう。
日本のアニメは、世界に誇る「クールジャパン」の象徴として高く評価されてきました。しかし、その独自性には光と影の両面が存在します。AiScReamの歌声に感じる「幼さ」の違和感は、この「クールジャパン」の影の部分が滲み出ているように感じられます。彼女たちの声、そしてそれが象徴する文化的表現とどう向き合っていくか。それは、現代日本の社会が持つ成熟度合いが試されているのかもしれません。
文:石黒隆之
【石黒隆之】音楽批評家。その他、スポーツ、エンターテインメント、政治分野での執筆活動も行う。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿、『Number』等でのスポーツ取材経験あり。Twitter: @TakayukiIshigu4





