元ヤクザ僧侶が拳銃密売で逮捕 – 仏門と裏社会の深いつながり

茨城県内で暴力団関係者に回転式拳銃と実弾4発を譲渡したとして、現役の僧侶が逮捕されるという衝撃的な事件が起きた。慈悲の教えを説く仏の道と、殺人も厭わないヤクザの世界は対極にあるように思えるが、関係者はその間に存在する意外な親和性を指摘する。本記事では、元ヤクザが仏門に入る背景、そして宗教団体が彼らを受け入れる理由、さらにはその社会的な意味合いについて深掘りする。

逮捕された「僧侶」の裏社会との接点

警視庁に銃刀法違反などの疑いで逮捕されたのは、福島県郡山市の僧侶、開発喜成容疑者である。全国紙社会部デスクによると、開発容疑者は元暴力団組員であり、福島県内の寺院で僧侶として活動していたという。逮捕容疑は、今年1月に茨城県笠間市内で、知人の暴力団関係者の男に回転式拳銃と実弾4発を数十万円の対価で譲り渡したとされる。この拳銃は殺傷能力のある密造銃だった。男が2月に別件で逮捕され、その後の捜査で山梨県内の関係先から拳銃などが押収されたことから、開発容疑者の関与が浮上した。「話したくありません」と供述し、容疑を否認している状況だ。

拳銃と実弾を暴力団関係者に譲り渡した容疑で逮捕された僧侶(イメージ写真)拳銃と実弾を暴力団関係者に譲り渡した容疑で逮捕された僧侶(イメージ写真)

ヤクザと仏教の意外な関係性

暴力団は事務所に神棚を据えるなど神道の影響が強いとされる一方で、仏教とのつながりも深い。例えば、五代目山口組で若頭補佐を務め、財力を誇った後藤組の後藤忠政元組長は、引退後の2009年に得度し、「忠叡」という法名を授かっている。

また、天台宗の総本山である比叡山延暦寺(大津市)では2006年、山口組による歴代組長の法要が執り行われることが問題となった。地元警察が中止を要請したにもかかわらず、寺側はこれを拒否し、法要を強行した過去がある。さらに最近では、今年4月に死去した稲川会の清田次郎総裁の墓が、曹洞宗の大本山・總持寺(横浜市)に建立されたことが明らかになり、反社会的勢力排除の風潮に逆行する形として波紋を呼んだ。

寺院側がヤクザを受け入れる背景と動機

宗教雑誌記者は、ヤクザを排除しない寺院側の事情について言及している。仏教はカースト制度を否定した釈迦によって形成され、「仏の前ではみな平等」という教えがあるため、門徒を経歴や身分で差別しないという原則がある。この教えが、元ヤクザを拒みにくい一因となっている。

しかし、最も大きな理由は「金銭」であると指摘される。見栄やブランドにこだわるヤクザは、格式の高い寺院を好み、戒名も最高位のものを選ぶ傾向がある。墓を建立すれば、追善供養のたびに勢力誇示や香典集めのために派手な法要が行われ、寺には定期的に多額の金銭がもたらされる。こうした密接な関係が育まれ、一般企業では雇わない元ヤクザを僧侶として受け入れる事例が増えているのだ。もちろん、多くの場合は改心し、更生の道を歩んでいるとされる。

元ヤクザが宗教の道へ転身する理由

元ヤクザが宗教の道に進むのは仏教に限らず、キリスト教の牧師になる者もいる。捜査関係者は、ヤクザが宗教家へと転身する背景には複数の理由があると解説する。

まず、組織を離れる際に「坊さんになります」と言えば、指を詰めたり組織に金銭を置いていく必要なく、追及されるリスクが軽減されるという側面がある。実際、近年の山口組の分裂抗争でも、神戸側から引退した者の中には、表向きは僧侶になった者もいるようだ。

また、新興宗教では信者間の結束が強く相互扶助が働くため、例えば指名手配を受け、逃亡する際に仲間の信者を頼るケースもあるという。これはヤクザではないが、長年の指名手配の末に昨年死亡した桐島聡が所属していた東アジア反日武装戦線では、別のメンバーが逃走途中で創価学会に入信し、事情を知らない信者たちに一時的に生活の面倒を見てもらったという話もある。

さらに、ヤクザは暴力だけでなく、口達者でなければならない。子分を従え、もっともらしいことを言って、あたかも正しいことをしているかのように思わせる必要がある。こうした話術や人心掌握の素養は、説法などで門徒の心に響く話を求められる僧侶になっても活かされる可能性があると指摘されている。

現代社会における寺院の「駆け込み寺」としての役割

古来より寺は、恵まれない人々を受け入れる救済機関としての役割を担ってきた。時代は移り変わり、貧困の問題はかつてに比べて解消されつつあるものの、現代社会においても寺院は新たな形で「駆け込み寺」としての側面を漂わせている。反社会的勢力排除の風潮が強まる中で居場所を失った元ヤクザにとって、仏門は更生や新たな人生を歩むための最後の拠り所となっている場合がある。しかし、今回の事件が示すように、その中には依然として裏社会とのつながりを断ち切れない者も存在し、宗教と社会の複雑な関係性を浮き彫りにしている。