自身も3年間ひきこもりを経験した縁野朝美さん(64歳、仮名)は、25歳からひきこもっている息子(42歳)と二人暮らしを続けています。本稿では、彼女がどのようにして「自分の家族」を求め、その中でどのような葛藤と経験を経て、母子ともにひきこもりに至る複雑な要因が形成されていったのか、その幼少期から青年期に焦点を当てて深掘りします。祖母による厳しい抑圧、人への過度な気遣い、そして家庭への深い渇望が、彼女と息子にどのような影響を与えたのか、その道のりを紐解きます。
深刻な表情で過去を語る60代の女性、ひきこもり支援の集まりにて
幼少期の「望まれない存在」としての自己認識
朝美さんは生後2ヶ月で母親が働きに出され、年子の兄や3人の年下のいとこと共に、父方の祖母に育てられました。祖母は一家を取り仕切り、母親に対しても「金を稼いで来い」と強く要求する存在でした。朝美さんの最も古い記憶は、母親に甘えようとした際に祖母が「甘やかすんじゃない!」と怒鳴りつけ、母親が泣いて家を出て行った光景だと言います。
5人の孫の中で唯一の女の子だった朝美さんは、跡取りとして大切にされた兄とは対照的な扱いを受けました。祖母に逆らうことなく、「あれをしろ」「これをしろ」と言われるままに行動し、常に大人たちの顔色を伺って生きてきました。失敗して見捨てられることへの恐怖から、体調が悪くてもひたすら我慢する日々。自身の誕生日を祝ってもらった記憶もなく、「自分は望まれていない、必要のない存在なのだろう」という自己否定感を抱きながら育ちました。幼稚園にも通わせてもらえず、文字を習うこともないまま小学校に入学した際、「自分だけが異世界から来た宇宙人のようだった」と苦笑しながら当時を振り返ります。
自分の家族への切望と、その後の葛藤
高校を卒業後、朝美さんは「子どもが好きだから」という理由で上京し、昼間は幼稚園の助手として働き、夜間の学校で保育を学びました。しかし、2年生の時に園児の一人が鉄棒から落ちて骨折する事故が発生。この出来事は大騒ぎとなり、朝美さんは家から出られなくなってしまいます。「怪我は自分のせいではない」と理解しつつも、「普通の親は子どもに対してこんなにも一生懸命なのだ」という衝撃を受け、他人の子どもに触れることへの恐怖心が芽生えました。幼少期に抱いた「失敗したら見捨てられる」というトラウマが蘇り、パニック状態に陥った彼女は、鍵をかけて家に閉じこもり、仕事も学校も辞めてしまいました。
その後、生活費を稼ぐために居酒屋でアルバイトを始め、そこで知り合った同僚の男性と親しくなり、21歳で結婚。22歳で長男を、翌年には次男を出産しました。子育ては朝美さんにとって「すっごく楽しかった」と言います。長年「自分に存在価値はない」と感じていた彼女にとって、「私がいなければ生きていけない」という子どもたちの存在は、生きる力となり、大きな喜びをもたらしました。
ひきこもり以前に天職と感じていた幼稚園の助手の仕事に励む朝美さんのイメージ
しかし、この喜びは同時に過干渉へと繋がります。人の顔色を伺って育った彼女は人の感情を読むのが得意で、何でも先回りして子どもたちの世話を焼いてしまいました。「そりゃ、子どもはまともに育たんよね(笑)」と自嘲する朝美さんの息子は、片付けや整理整頓が全くできない子に育っていったのです。
結論
縁野朝美さんの経験は、幼少期の家庭環境が個人の自己肯定感や他者との関わり方に深く影響を与え、それが子育てやその後の人生にまで連鎖していく可能性を示唆しています。特に、祖母からの抑圧と愛情不足、そして「望まれない存在」という認識が、彼女の「自分の家族」への強い憧れと、その後の子育てにおける過干渉へと繋がった経緯が浮き彫りになります。このような複雑な背景が、後に息子がひきこもり、そして朝美さん自身もひきこもりを経験する「二重ひきこもり」という状況の一因となったことが示唆されています。次編では、彼女がどのようにして介護職を選び、なぜ自身もひきこもりに陥ってしまったのか、その詳細を追っていきます。
参考文献
- ルポ〈ひきこもりからの脱出〉37 二重ひきこもりに至る“家族の崩壊” – 集英社オンライン / Yahoo!ニュース





