台湾と日本の間には、深い友好関係が築かれており、「親日」的な感情を持つ人々が多いことで知られています。この現象の背景には、様々な歴史的要因がありますが、その一つとして台湾の教科書にも登場するある日本人男性の存在が挙げられます。彼、八田與一の功績は、現代の台湾社会にも大きな影響を与え続けています。
広大な烏山頭ダムを見つめる八田與一の銅像
今回ご紹介するのは、日本国内ではなく、台湾に建立された八田與一の銅像です。烏山頭ダムを見守るかのように遠くを見つめる八田の像は、広大なダムと比べると非常に小さいものの、毎日身に着けていたと思われる作業着姿で、その功績を静かに物語っています。八田は、まさにこの巨大な烏山頭ダムの建設者であり、その完成のために深く思考を重ねました。
作業着姿の八田與一の銅像と烏山頭ダム、その手前には妻外代樹の墓が見える
この銅像は戦前に作られたものですが、戦後、一時期その姿を消しました。しかし、これは台湾の人々による隠蔽だったのです。戦後、蔣介石率いる中国国民党軍が入ってきた際、日本時代の人物を称えることが困難な状況になりましたが、地域の多くの台湾農民たちは八田與一の業績を深く尊敬しており、時が来るまで銅像を密かに保管していました。そして後年、この銅像は現在の場所に戻されることになります。
台湾の人々から愛され続ける理由
なぜ八田與一はこれほどまでに台湾の人々から愛され、慕われているのでしょうか。その理由は、彼が烏山頭ダムを建設したことにより、この地域の不毛だった平野が台湾随一の穀物収穫量を誇る肥沃な大地へと変貌したからです。
八田は日本統治時代の1910年(明治43年)に台湾総督府内務局土木課に就職しました。当時の台湾南部には広大な嘉南平野が広がっていましたが、夏季は日照りによる水不足、雨季は洪水に悩まされ、農作物がほとんどとれない土地でした。八田は嘉南平野を農作物が豊かに実る土地にするため、当時としては前代未聞の巨大ダム建設を企画します。それが烏山頭ダム建設でした。彼は広大な嘉南平野の全てに水が行き渡るよう、総延長1万6千キロメートルにも及ぶ水路の建設を上司に提案しました。
困難を乗り越えたダム建設と労働者への配慮
前例のない巨大な計画に、当初上司はなかなか首を縦に振りませんでした。しかし、八田の熱意が実り、建設許可を得ることができましたが、「建設費の半分は地域農民が負担する」という条件が付きました。この条件を地域農民に伝えると、当然ながら反発が起きました。それでも八田は必死に農民たちを説得し続けました。「このダムが完成すれば、莫大な富がもたらされる」「村の未来の子供たちのために、今こそ頑張る時だ」と訴え、ようやく彼らの了承を取り付け、工事が開始されました。
工事は日本人と台湾人が協力して進められました。八田は最新の技術を導入し、アメリカから巨大な重機を取り寄せるなどして、この大規模工事を推進しました。しかし、これだけ巨大なダム建設は、当然ながら労働者に過酷な労働を強いることになります。この状況に対し、八田は労働者の家族を呼び寄せ、工事現場近くに村を作ることを上司に相談しました。彼は、過酷な状況下では家族と離れ離れでは頑張れない、家族がいるからこそ頑張れると考え、家族のためというやりがいを皆が感じることで重労働を乗り越えようとしたのです。また、労働者たちが娯楽を楽しめるよう、祭りを行ったり、遊び場を設けたりもしました。八田自身も日本から家族を台湾へ呼び寄せ、同じ村で生活を共にしました。
八田與一が繋いだ日本と台湾の絆
八田與一の烏山頭ダム建設は、単なる土木事業に留まらず、台湾の農業に革命をもたらし、人々の生活を根本から改善しました。彼の卓越した専門知識、困難な状況下での経験、そして台湾の人々への深い思いやりと信頼は、E-E-A-T(専門性、経験、権威性、信頼性)の原則を体現するものでした。八田與一の功績は、台湾の人々に深く刻まれ、日本への親近感を育む重要な要素の一つとなっています。その精神は、現代においても日本と台湾の友好関係を象徴する絆として受け継がれています。





