零戦のエース、志賀淑雄の不屈の軌跡:海軍兵学校から激戦の空へ

太平洋戦争開戦以来、海軍機動部隊の零戦隊を率いて数々の戦果を挙げた元海軍少佐、故・志賀淑雄氏。多くの零戦搭乗員から慕われた彼は生前、自身の戦争体験を語り、その貴重な証言は現代にまで伝えられています。本稿では、ジャーナリストの神立尚紀氏の著書『零戦搭乗員と私の「戦後80年」』から一部を抜粋・編集し、志賀氏の海軍兵学校時代から激動の戦場での活躍まで、その生涯と功績を振り返ります。

零戦パイロットであった志賀淑雄氏の活躍を象徴する写真零戦パイロットであった志賀淑雄氏の活躍を象徴する写真

「荒くれクラス」で磨かれた海軍兵学校時代

志賀淑雄氏は大正3年(1914年)、海軍中佐・四元賢助氏の三男として東京に生まれました。父・賢助氏は海軍兵学校20期生で、日清・日露戦争に従軍した厳格な人物であり、その教育方針は子供たちにも強く影響を与えました。父の転勤や予備役編入に伴い、広島県の呉、三次、そして山口県へと転居を重ね、山口中学校5年時に海軍兵学校に合格。昭和6年(1931年)4月、第62期生として入校します。

海軍兵学校はクラスごとに気風が大きく異なると言われますが、志賀氏の62期は伏見宮博英王と朝香宮正彦王という2人の皇族が在籍する「殿下クラス」でありながら、史上稀に見るほど気性の荒いクラスとして知られていました。そのため、彼らが最上級生であった昭和9年(1934年)には、最下級生の65期生が海兵史上最も厳しい鉄拳の洗礼を受けたと語られています。しかし、皇族と共に学び鍛えられた経験を持つ海軍士官は、後の神がかり的な天皇観には距離を置いていたと志賀氏は語っています。「それでも軍人としての立憲君主に対する忠誠心とは全く別の問題でした」と、その複雑な心情を明かしています。

そんな兵学校時代において、志賀氏の将来を決定づける出来事が訪れます。最上級生になった昭和9年5月27日、日本海海戦から29年の海軍記念日の式典でのことでした。この日、練兵場に整列した生徒たちの上空で、空母龍驤分隊長・源田實大尉以下、青木與、永徳彰らが「源田サーカス」と呼ばれる編隊アクロバット飛行を披露したのです。その腹の底に響く爆音と圧倒的な迫力に、志賀氏は深い感銘を受けました。親友の周防元成氏、高橋忠夫氏と共に飛行機乗りになることを改めて誓い、その後の人生を航空隊に捧げる決意を固めたのです。

真珠湾攻撃からソロモン諸島へ:激動の戦場を駆け抜ける

昭和16年(1941年)4月、志賀氏は空母加賀戦闘機先任分隊長に着任し、ここで太平洋戦争開戦を迎えることになります。彼の乗機は、当時最新鋭の零戦でした。真珠湾攻撃を終えた加賀は内地に帰還し、年が明けた昭和17年(1942年)1月9日には再び出撃。1月20日には、南太平洋のニューブリテン島ラバウル攻略戦に参加し、初の実戦を経験しました。

同年4月、内地に戻った志賀氏に、完成したばかりの空母隼鷹飛行隊長の辞令が届きます。隼鷹は、もともと日本郵船の大型客船として建造されていた橿原丸を、海軍が買収して空母に改造した艦でした。志賀氏は隼鷹飛行隊長として、ミッドウェー作戦の陽動作戦として実施されたアリューシャン作戦に参加。その後、米軍によるガダルカナル島侵攻が始まると、トラック島を経てソロモン諸島方面に出撃しました。彼は10月17日のガダルカナル島爆撃や、10月26日の南太平洋海戦といった激戦にも参加し、零戦パイロットとして第一線で戦い続けました。

零戦パイロットとしての不朽の功績

志賀淑雄少佐の生涯は、まさに日本の激動の時代を零戦と共に駆け抜けたものでした。海軍兵学校での厳しい訓練、皇族との交流、そして「源田サーカス」に触発されたパイロットへの道。真珠湾攻撃を皮切りに、ラバウル、アリューシャン、ガダルカナルといった数々の激戦地を転戦し、卓越した操縦技術とリーダーシップで零戦隊を率いました。彼の戦争体験は、戦後の私たちに多くの示唆を与え、その不屈の精神と功績は、日本の軍事史、特に航空戦の歴史に深く刻まれています。