阪神大震災25年、「仮設のマザー・テレサ」故黒田裕子さんの遺志継ぎ臨時便

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 神戸市営地下鉄などは阪神大震災25年となる1月17日、多くの市民らが早朝の午前5時46分に犠牲者を追悼できるよう、5年ぶりに臨時便を運行する。震災20年の節目だった5年前に臨時便実現に尽力したのが黒田裕子さん。今回の臨時便も黒田さんの遺志を継ぐ有志の声で実現した。

 黒田さんらは震災20年を翌年に控えた平成26年、臨時便実現に向け署名活動。市交通局に署名と要望書を提出した翌日に入院し、同年9月、帰らぬ人となった。73歳だった。市交通局などは黒田さんの遺志を受け止め、臨時便が実現した。

 臨時便は1回限りだったが、震災25年を控えた昨年7月、「阪神高齢者・障害者支援ネットワーク」の宇都幸子代表と、兵庫県社会福祉協議会が運営するボランティア拠点「ひょうごボランタリープラザ」の高橋守雄所長が神戸市役所を訪問し、再びの臨時便を要望。市側も応えて午前4時台の臨時便が実現した。

 高橋所長は「一人でも多くの人に犠牲者を追悼してもらおうという黒田さんの遺志を引き継いだ」と話している。

 阪神大震災や東日本大震災の被災地で献身的な活動を続け、平成26年に肝臓がんで亡くなった黒田さんの活動記録が神戸市と宮城県気仙沼市に保管されている。避難所や仮設住宅で被災者に寄り添ってきた黒田さんの対応は、被災者が「日本一幸せな仮設生活だった」と振り返り、「日本の被災者支援の基礎をつくった」と評価される。その活動記録は被災者対応を知る貴重な資料でもあり、震災対応の検証にも活用されている。

 《雨の日は津波を思い出しながら話をされる》

 《「いつ(仮設住宅を)出るの」と声をかけられストレス》

 気仙沼市危機管理課に保管されている「仮設・住宅管理日誌」には、黒田さんらが東日本大震災の被災者から吐露された悩みや身近なトラブルの相談などが克明に記されている。

 黒田さんらは東日本大震災後、同市面瀬(おもせ)地区の仮設住宅で、「津波から助かった命を二次災害に遭わせてはいけない」と24時間態勢で看護師らによる見守り支援活動を展開した。亡くなる直前まで被災者一人一人に寄り添い、要望にこたえた。仮設住宅の自治会長を務めた尾形修也さん(75)は「日本一幸せな仮設生活を送る機会を得られた」と振り返り、市危機管理課の小山隆晴主幹は「ここまできめ細かな管理をしている仮設住宅はほかにない」と驚く。

 市は昨年2月、黒田さんらが立ち上げたNPO法人「阪神高齢者・障害者支援ネットワーク」から日誌を含む約50点の資料を寄贈された。資料は震災対応の検証に活用しており、将来的には一般公開する方針だ。

 一方、神戸では防災学習施設「人と防災未来センター」(神戸市中央区)に黒田さんの資料約200点が寄贈されている。昨年12月から黒田さんの企画展として、活動年表とともに阪神大震災当時に使用していた手帳や仮設住宅の訪問記録など約30点を展示。さらに、同センター資料室・震災資料専門員の中平遥香さんら4人が活動の研究を進めている。

 中平さんは「ボランティア活動は現物の書類が残りにくい」とした上で、寄贈された資料を「活動が詳細に分かる」と評価。特に個々の被災者の病歴や家族の状況などが記された訪問記録は、病院のカルテよりも詳細で貴重という。

 中平さんは「阪神大震災での黒田さんらの活動が日本の被災者支援の基礎となっている。資料から被災者のニーズをデータベース化などすれば、将来の災害対応にも役立つはずだ」と話している。(尾崎豪一)

 黒田裕子(くろだ・ゆうこ、本名=くろだ・ひろこ) 島根県出身。平成7年1月の阪神大震災後、看護師として勤務していた兵庫県宝塚市立病院を退職し、避難所で負傷者の手当てなどに従事した。同年6月~11年9月は、神戸市西区の西神(せいしん)第7仮設住宅に住み込みながら、孤独死や自殺防止のため戸別訪問や被災者同士の交流の場づくりなどに取り組み、被災者が復興住宅などに移転した後も活動を継続した。

 23年の東日本大震災では、宮城県気仙沼市面瀬地区でほかの看護師とともに仮設住宅で生活を支援。新潟県中越地震や中国・四川大地震など国内外の他の被災地でも支援活動を展開し、その献身的な活動の様子から「仮設住宅のマザー・テレサ」と呼ばれた。

 教育者として各地で講義や講演を行い、災害看護の後進育成を続けたが、26年9月、肝臓がんのため73歳で死去。29年には、思いを受け継ぐ市民活動をたたえる「黒田裕子賞」がNPO法人により創設された。

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