【主張】子供への虐待 悲劇への反省が足りない

[ad_1]

 昨年1月に千葉県野田市の小学4年、当時10歳だった栗原心愛(みあ)さんが虐待死した事件で、彼女が自分宛てに書いた手紙を祖母が公開した。

 手紙はこう結ばれていた。「未来のあなたを見たいです。あきらめないで下さい」。心愛さんがどのような気持ちでこれを書いたのか。想像するだけで胸が痛い。

 同じ悲劇を繰り返さぬため、親権者らによる体罰禁止規定を盛り込んだ改正児童虐待防止法が4月に施行される。

 厚生労働省の有識者検討会が、どんな行為が体罰に当たるかを示した指針は、頬や尻をたたく、殴る。長時間正座させる。夕飯を与えない-などを列挙した。

 冗談でも「お前なんか生まれてこなければよかった」などということは子供の権利を侵害し、心を傷つける行為と強調した。

 何をいまさら、の感もあるが、しつけと称しての虐待が後を絶たない現実が背景にある。

 心愛さんの事件の公判で、傷害致死罪に問われた父親の被告側は「教育のためにやったことが行き過ぎてしまった」と述べている。こうした弁解を許さぬための指針である。だが、法改正も新たな指針も、そこに魂が入らなければ、ただの文面である。魂とは、関係者や社会の本気度を指す。

 野田市が1月にまとめた検証報告書は、心愛さんが一時保護されてから少なくとも13回、行政機関が介入しなければならない状況があったと指摘した。

 その上で「市の福祉、学校、児童相談所の誰であれ、頼れる大人が一人でもいたら救えたはず」としてそれぞれの対応を「子供への裏切り」と強く批判した。

 深い反省は、全国で共有すべきものだった。

 神戸市こども家庭センター(児童相談所)では今月10日未明、当直勤務を請け負うNPO法人の男性職員が、助けを求めてきた小学6年の女児に「警察に相談して」と伝え、追い返していた。

 女児は近くの交番を訪れ、警察から「児童虐待がある」と通報を受けた児相が改めて保護した。そこには心愛さんの事件の反省も、子供を守るのだという気概も、全くみられない。

 本来、子供を守るのは親の責務である。その親に虐待される子供は、社会を挙げて守らなくてはならない。

[ad_2]

Source link