【藤本欣也の香港探訪】19世紀の香港めぐる「真っ赤なウソ」 客家と貧民街の知られざる物語

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香港・茶果嶺は19世紀から続く古い村だ。石造りの家も残る(藤本欣也撮影)

香港・茶果嶺は19世紀から続く古い村だ。石造りの家も残る(藤本欣也撮影)
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 香港が世界史に登場するのはアヘン戦争(1840~42年)のころである。当時、香港は「名もない貧しい村だった」との説明をよく耳にする。しかし実際はそうではなかったようだ。香港の繁栄は約束されていた-。その礎となった街を訪ねた。

 「アヘン戦争が勃発する前から、今の香港は、あることで知られた場所でした。名もない村だったというのは真っ赤なウソです」

 こう語るのは香港の歴史家、高添強氏(56)である。

 アヘン戦争に敗れた清国(当時)は、1842年の南京条約で香港島を英国に割譲する。以後、98年までに九竜半島や新界地区を含む現在の香港領が英国に割譲、あるいは租借された。

 それでは一体、180年あまり前の香港は何が有名だったのか。

 「大きな岩の上に、香港が乗っかっていると想像してみてください。分かりますか。つまり、良い石がたくさん採れる場所として知られていたのです」

 特に九竜半島の東部は良質の花崗(かこう)岩が眠っていたという。

 「しかし18世紀後半から19世紀初めにかけて、周辺は海賊が跋扈(ばっこ)し、採石したくてもできなかった。ちょうど海賊の勢力が衰えたころ、香港が世界史に登場するのです」

 植民地・香港に乗り込んだ英国人たちはまず、権力のよりどころとなる建物群を、しかもできる限り威容を誇る建物群を整備しなければならなかったはずだ。その建築を容易ならしめたのが、香港で採れる石材だったのである。

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