【芸能考察】ノーベル文学賞受賞は必然 ボブ・ディランの全詞集からあふれる言葉の凄み

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ボブ・ディランの歌詞集「The Lyrics 1961-1973」

ボブ・ディランの歌詞集「The Lyrics 1961-1973」
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 2016年、米シンガー・ソングライター、ボブ・ディラン(78)が歌手として初めてノーベル文学賞を受賞した際、世界中で大きな論争が起きた。

 彼の受賞を素直に喜ぶロック音楽界に対し、文学界からは、音楽と文学は別物で、歌手が文学賞を受賞するのはおかしいといった異論が噴出した。とりわけ英語圏ではない日本では異論の声がことさら大きかった気がする。

 しかし、その考えが明らかに間違っていることを改めて証明する書籍が登場した。「ボブ・ディラン ザ・リリックス 1961-1973/1974-2012」(3月27日発売、佐藤良明訳、岩波書店、各4500円+税)の2冊だ。

 ディラン自身が2016年にまとめた自身の楽曲の歌詞集「ザ・リリックス 1961-2012」を、ノーベル文学賞賞候補として名が上がる米作家、トマス・ピンチョン(82)らの名訳で知られる東京大学名誉教授(専門はアメリカ文化・思想・ポピュラー音楽)、佐藤良明氏(69)が翻訳。

 デビューから35作目のスタジオアルバム「テンペスト」(2012年)に収録された390曲の英詞と日本語訳が年代順に並ぶ様に圧倒されるが、肝心の翻訳の内容がさらに凄い。

 ディランの日本語訳といえば、ロック音楽ファンの間では片桐ユズル氏や三浦久氏の翻訳が脳内に深く刷り込まれているが、本著では「風に吹かれて(Blowin’in the Wind、63年)」は「風に舞っている」、「くよくよするなよ(Don’t Think Twice,It’s All Right、63年)」は「思い迷うな、いいってことさ」、「見張り塔からずっと」は「見張り塔にずらりと(All Along the Watchtower、67年)」といった具合に、曲名からだけでも訳者の本気度がにじむ。

 加えて、どの訳詞も、英詞の持つ意味合いをより的確に、かつ文学的な佇(たたず)まいを大切にした重厚な仕上がりに。例えば「ミスター・タンブリン・マン(Mr.Tambourine Man)」(65年)では「狂っちまった悲しみの拗(ねじ)くれた手のとどかぬところ/そう、ダイヤモンドの空の下、片手を自由にくねらせ踊ろう/海にシルエットを映し、サーカスの砂に取り巻かれて/過去の記憶も未来のさだめも波の深みに押し込めて/いいからさ、今日のことは、明日まで忘れていようじゃないか」

 「自由の鐘(Chimes of Freedom)」(64年)では「鐘は打つ、自分の言葉を述べる場のない舌たちのため/変えようのない貧しさに甘んじる人たちのため/鐘は打つ、耳や、目や、しゃべる口のない人のため/無残に生きる、つれあいのない、いわれなく売女と呼ばれる母親のため/追われて逃げて欺(だま)される、品行不正な流れ者のため/僕らは見つめた、自由の鐘のかがやきを」

 また、聖書の影響が色濃い名曲で知られる「砂の一粒(Every Grain of Sand)」(81年)では「太古の足音が響く、海が動いているかのようだ/振り向くと人が見えるときもある、自分ひとりのときもある/人の現実のつりあいの中にあるおれは/堕ちる雀と違わない、砂の一粒と変わらない」といった具合…。

 ページをめくるたび、彼の歌詞がまごうことなき文学であることを再認識させられる。これまでの数々の日本語訳も決して間違いではないが、佐藤氏の翻訳は、ディランが91年に米シンガー・ソングライター兼作家ポール・ゾロ氏(61)とのインタビューで自身の歌詞の特徴として挙げたgallantry(騎士の如き高潔さ)な部分がより際立っていると感じた。

 ロック音楽やポップスといった大衆音楽の分野では他に類を見ないこうした歌詞、というか文学に曲を付けて歌い続けてもうすぐ60年。やはりボブ・ディランという男は超人だった。ディランのノーベル文学賞受賞にまだ納得がいかないという人こそ、この2冊を買ってしっかり読み、その後、彼の楽曲をしっかり聞きながらもう一度読むべきだ。    (岡田敏一)

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