【歴史の交差点】武蔵野大特任教授・山内昌之 一律10万円給付の攻防





安倍晋三首相との面会を終え記者団の取材に応じる公明党・山口那津男代表=15日午前、首相官邸(春名中撮影)

 「いちばん最後に投入されたものが、とかく、すべてを決定したように思われがちなのである」

 これは『ローマ建国史』を書いたティトゥス・リウィウスの言葉である。最近の公明党・山口那津男代表が1人10万円の現金給付を認めさせた手際の良さを見るにつけて、リウィウスの言葉をつい思い出してしまう。

 一世帯あたり30万円の給付という補正予算案をひっくりかえしたのだから、政治的には剛腕に違いないが、表舞台ではそう見せないところに山口氏の巧みさを感じざるをえない。1人10万円という分かりやすくスピード感もある主張を通した政治家なら、普通であれば手柄顔をするかもしれない。しかし歴史でも政治でも、自分から得た成果を安倍晋三首相の「不名誉」だと印象づける必要はない。

 10万円給付は全都道府県での緊急事態宣言と結びつけて正当化されるようだ。もともと10万円と30万円のいずれをとるのか、首相その人にも選択の余地が残されていたとも聞く。財務省はじめ政府の合理的思考から導かれた30万円の難点は、受け取れる国民の数が限られており時間もかかることであった。

 自民党や公明党には政府与党として新型コロナ感染危機に直面した市民、特に個人事業主や低所得者を早期に救済する義務もあり、この点を連立維持の条件と関係づけて山口氏はぎりぎりと首相を押したのだろう。押し込まれた安倍首相は、それでも土俵際で踏ん張った。それは、給付を緊急事態宣言の全国普遍化という、生命を救う別の政治的リアリティーに結びつけたことではないか。

 16世紀フランスの哲学者、モンテーニュは「名誉以外のものなら、すべてのやりとりができる」と述べた。安倍首相が10万円給付の提案を安易に受け入れていたなら、首相の政治生命は名誉とともに危機にひんしていたかもしれない。首相や代表になるほどの政治家たちにとって、自分の金や財産なら他人に分けられても、名誉や栄光を分けることはまずないだろう。これは古代ローマから近世フランスそして現代日本を通じてあてはまる真理ではなかろうか。

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