【河村直哉の時事論】コロナ禍 国家として介入ためらうな

[ad_1]

 多くの心ある国民がいま新型コロナウイルス禍を乗り切るために団結しようとしているだろう。ところが日ごとあらわになるのは、危機を乗り切るには十全とはいえない日本という国家の欠陥である。緊急事態宣言に伴う休業要請の、経済支援の問題にもそれは表れている。


新型コロナウイルスの感染拡大による緊急事態宣言の全国拡大で人通りが少なくなった京都市の四条大橋=20日午前(永田直也撮影)
新型コロナウイルスの感染拡大による緊急事態宣言の全国拡大で人通りが少なくなった京都市の四条大橋=20日午前(永田直也撮影)

国が制度設計を

 国の緊急事態宣言は当初の7都府県から全国に拡大された。店舗や施設への休業要請は各地に広がっている。店主や経営者、そこで働く従業員には死活問題である。取引業者も含め影響は各方面に及ぶ。

 政府は7都府県に宣言を出した後も、休業要請しても補償はできないとの立場を取った。それぞれの自治体が、休業要請に応じた事業者に協力金や支援金を支払うなどの方針を打ち出した。

 しかしこれは本来おかしい。都道府県知事が休業要請をするとしても、国の緊急事態宣言に基づいて行うのだから、休業という事態になったときの補償に類する制度設計の大枠は、国が考えておくべきことがらだった。個別補償は財源的にも運用的にも困難があるとしても、何も考えていないのは無策といわなければならない。

 しかも政府は、収入が減った世帯に30万円を給付することなどを盛り込んだ補正予算案を組み替え、国民1人当たり10万円を給付することにした。あわてふためいているという印象はぬぐえない。危機管理に臨む先手の姿勢を国は忘れてはいけない。

脆弱な国家の「お願い」

 どうしてこのようなことになるのだろう。非常事態にあわてているだけでなく、戦後日本のあり方に欠陥があると考えるべきである。およそ国家は国民を守るために権力を持つ。しかし先の戦争への反動から国家権力を過剰に警戒する風潮が、日本に根を張ってしまった。それが政治のなかにも残っている。

 今回の緊急事態宣言は新型インフルエンザ等対策特別措置法の改正で可能になっている。この法律は民主党政権下の平成24(2012)年に成立した。こんな条文があることに注意したい。

 「国民の自由と権利が尊重されるべきことに鑑み、新型インフルエンザ等対策を実施する場合において、国民の自由と権利に制限が加えられるときであっても、その制限は(略)必要最小限のものでなければならない」

 個人の自由や権利が優先されている。従ってこの特措法には強制力はほとんどない。医療品を隠すことなどには罰則もあるが、外出自粛も施設の利用制限も強制力はない。本来なら施設の利用制限などは国家が権力を持ってなすべきであり、その分の補償措置を一連のものとして考えるべきだろう。しかし日本では権力のない脆弱(ぜいじゃく)な国家の「お願い」が基本なのである。

続きを読む

[ad_2]

Source link