新型コロナウイルス対策として、政府がどこまで国民生活に関与できるのかが大きな問題となっている。感染の状況がより深刻であることもあるだろうが、欧州では厳しい国民生活の制限が行われている。理由もなく外出すれば罰金という国もあるようだ。韓国では陽性反応が出た人にはその位置を知らせるリストバンドをつけて隔離措置違反に対応するという。情報機器を利用した国民の行動の管理ということでいえば、中国やイスラエルなどでは、もっと踏み込んだ取り組みをしている。マスクのような商品の流通でも、韓国や台湾などはいち早く効果的な配給制度を導入して成果をあげている。
新型コロナのような、まれな事例は頻繁にあることではないので政府の国民生活への関与を強めるようなことは例外的なことである。この問題が終結すればまた元の状態に戻るだろう。そう考える人も多いだろうが、話はそう簡単でもなさそうだ。医療の専門家の方々の話を伺っていると、ウイルス感染の問題は今回で終わりではなさそうだ。それどころか、将来はもっと厄介なウイルスが出てくる可能性も小さくないという恐ろしい話をする医療関係者もいる。
ウイルスに対応するためには、いろいろな面で政府の力を強める必要がある。医療崩壊を起こさないような仕組みの拡充と制度の整備、感染を広げないように国民の行動を制限する強制力、マスクや防護服など医療現場での装備を確保できるような強力な配給制度、休業に追い込まれた事業者や労働者への迅速かつ強力な支援制度など、緊急時に政府の力をもっと強めるべき分野は多岐にわたる。
このような議論をすると、政府が国民を支配する窮屈な社会の到来を懸念する人も多いだろう。ただ、『自由の命運』の中で経済学者アセモグルとロビンソンが分析しているように、活力と豊かさを備えた社会の条件は、国(state)が強力な力を持っていることと、社会(society)が国の独裁や暴走をとめる対抗力を持つこと、この2つのバランスが重要となる。