1953年、日本旅行中に父・李秉チョル(イ・ビョンチョル)会長、母・朴杜乙(パク・ドゥウル)氏と共に過ごした李健熙(イ・ゴンヒ)会長(左から)。[中央フォト]
故李健熙(イ・ゴンヒ)サムスン会長は1993年、サムスンの「2流根性剔抉」を叫んだ新経営宣言の翌月、社長団を大阪に呼んだ。「片手を縛って24時間過ごしてみなさい。苦痛であるはずだ。しかしこれを克服してみなさい。私はやってみた。これが習慣になり、快感を感じ、勝利感を得ることになれば、その時に変わるのが分かるはずだ」。サムスン社長団はこの話を聞いてサムスンの慢性病を乗り越えようとする李会長の苦悩を感じたという。
李会長は42年に大邱(テグ)で生まれた。当時、三星商会の経営に忙しかった故李秉チョル(イ・ビョンチョル)先代会長は、故郷の慶尚南道宜寧(ウィリョン)に李会長を送り、李会長は祖母の下で育った。李会長が6歳になって家族がソウル恵化洞(ヘファドン)に一緒に暮らすことになった。李会長は釜山(プサン)師範小学校に通っていた5年の時、父の勧めで日本に留学した。当時は目立たないおとなしい生徒だったという。しかし話し始めると反論しがたい知識と論理で友達を当惑させたというのが、周囲にいた人たちの話だ。
◆高校時代、全国レスリング大会ウェルター級で入賞
李会長は日本留学当時、レスリングに没頭した。日本で韓国系プロレスラーの力道山を訪ねるほど熱烈なファンと知られている。李会長がレスリング選手として活躍した経験は経営哲学にも反映された。李会長は自身のエッセイ集『少し考えて世界を見よう』で、「スポーツを通じて我々が得ることができるもう一つの教訓は、いかなる勝利にも決して偶然はないという事実」と強調した。李会長はソウル師大付属高校時代の59年、全国レスリング大会にウェルター級で出場し、入賞した。
李会長と同期のソウル師大付属高卒業生が記憶しているエピソードがある。李会長が高校2年当時、校内でけんかが最も強いといわれる生徒と戦った事件だ。授業を終えてから図書館の裏で戦ったが、引き分けに終わった。この戦いの審判をしたという洪思徳(ホン・サドク)元議員(今年6月死去)は生前、中央日報にこのエピソードを話し、「李会長は口数は少なかったが、勝負を恐れたり避けなりしない『闘鶏』の気質を持っていた」と振り返った。
77年8月、韓国財界は後継構想の公開でざわついた。李秉チョル先代会長は日本の日経ビジネスのインタビューで、当時の李健熙中央日報・東洋放送取締役を後継者に挙げた。李先代会長は当時、「サムスンが小さな規模の企業なら上から順に長男が引き受ければよいが、サムスングループ程度の規模になればやはり経営能力が必須」とし「長男(李孟熙元第一肥料会長)は性格上、企業経営に合わないため、企業から手を引くようにしなければいけない」と話した。続いて「次男(李昌熙元セハングループ会長)は中小企業レベルの考え方をするため、サムスングループを任せることはできない。それで息子3人のうち三男(李健熙会長)を後継者に決めた」と説明した。
◆平昌五輪のため1年間に170日間ほど海外出張
李会長は「スポーツ外交官」の役割も果たした。96年に国際オリンピック委員会(IOC)委員に選任され、97にはサムスン電子がIOCのオリンピックマーケティングパートナーになった。特に平昌(ピョンチャン)冬季五輪の招致で重要な役割を担った。IOC委員の李会長は自ら関係者に会って招致活動をした。2010年バンクーバー冬季五輪から2011年の南アフリカ・ダーバンIOC総会までの期間に170日間の海外出張日程を消化した。平昌は3度の挑戦の末、2018年に五輪を招致した。
李会長はオーディオ・自動車・愛犬など一人でする趣味を楽しんだ。映画鑑賞も李会長の趣味の一つだった。李会長はエッセイに「映画をさまざまな角度から見ると小さな世界に会う。それが習慣になれば立体的に考える『思考の枠』が形成される」と書いていた。
しかし「李健熙式経営」の影もあった。自動車事業の失敗が代表的な例だ。李会長は95年、念願だった自動車業界に進出したが、通貨危機などを迎えて座礁した。結局、4兆3000億ウォンの莫大な負債を負って99年に法定管理を申請した。韓国の長い政経癒着の慣行からも自由でなかった。盧泰愚(ノ・テウ)元大統領の資金など政治資金事件に何度もかかわった。サムスンが創業初期から守ってきた「無労働組合経営」原則も市民・労働界から絶えず反発を招いた。