支援施設の建設予定地で、仁也さん(左)とみき子さんの遺影を手に、思い出を語る佐々木善仁さん(9日、岩手県陸前高田市で)=金沢修撮影
(写真:読売新聞)
津波が迫る中、ひきこもりだった次男は部屋から出て来なかった。最後まで避難を呼びかけた妻は波に消えた。岩手県陸前高田市の佐々木善仁さん(71)は東日本大震災で2人を失い、息子に向き合ってこなかったことを後悔し、2人の苦しみを知った。自宅を再建するはずだった場所を、ひきこもりや不登校の子どもたちの「居場所」にしようと決めた。(黒山幹太)
災害公営住宅などが立つ陸前高田市の中心部。佐々木さんが、生きづらさを感じる人たちが集える施設を作ろうとしているのは約200平方メートルの所有地だ。「ひきこもりの子どもたちの心が晴れるような場がほしい」。妻・みき子さん(当時57歳)の願いだった。
11年前まで住んでいた自宅跡はここから数百メートル。かさ上げ工事が行われ、今は土の下だ。家族4人の生活に異変が起きたのは、次男・仁也(じんや)さん(当時28歳)が中学2年の時。佐々木さんは教員で、2人の息子は幼い頃から転校が続いた。中学の部活動でテニスに打ち込んでいた仁也さんは転校を嫌がった。「もう学校に行かないからね」。部屋にひきこもるようになった。
佐々木さんは管理職になったばかりで、早朝から深夜まで仕事に追われた。家庭はみき子さんに任せきり。「せめて退職後は子どもと向き合って」と言われていた。2011年3月、市内の小学校校長を務め終えれば、退職だった。「そろそろ息子と」と考えていた。
17メートル超の津波が同市を襲った時、自身は小学校にいて無事だったが、海から約600メートルの自宅には、みき子さんと仁也さん、長男・陽一さん(41)がいた。みき子さんは一緒に避難するよう仁也さんを説得したが、自室にこもったままだった。津波が迫り、陽一さんと隣家の屋根に逃れた後、波にのまれた。別の家の屋根に移った陽一さんに「生きろ」と言葉を残した。佐々木さんが、みき子さんと仁也さんに再会したのは遺体安置所だった。
震災後、みき子さんが09年につくった「気仙地区ひきこもり・不登校父母会」の活動を引き継いだ。生前、手伝ってほしいと頼まれていた。「自分の育て方が悪かったのか」「どうしてうちの子だけが学校に行けないのか」。悩む親の声を聞くと、「こんなに苦しい思いを抱えていたのか」と、2人の気持ちが分かった。