【ロシアと世界を見る眼】戦争長期化の見通し、核兵器使用リスクも高まる
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ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は9月30日、ウクライナの東部と南部の4地方をロシアに併合する条約に調印した。週明けに憲法裁判所が審査、その後、議会両院での関連法の審議を経て4日には正式に併合が完了する予定だ。ロシア連邦を構成する行政単位(共和国、道、州など。日本でいう都道府県に相当)は4つ増えて89となる。
併合する4地方は、自称「ドネツク人民共和国」、「ルガンスク人民共和国」、そしてヘルソン州とザポリージエ州(ウクライナ語ではザポリージャ)。
30日の大クレムリン宮殿内の聖ゲオルギーの間での条約調印式でプーチン大統領は数百人の出席者を前に熱弁をふるい、さらに同日夜に隣接する赤の広場で開かれた条約調印記念コンサートに姿を見せ、ここでも一席ぶった。
この日の2つの演説を通じプーチン大統領は、怨霊に取り憑かれたように口を極めて「西」つまり米欧諸国の統治を徹底批判した。
ロシアと西側諸国との関係はすでに2014年のクリミア併合以来悪化の一途をたどってきたが、この日の演説は西側諸国との完全決別宣言と言ってもよいだろう。
プーチン大統領は2007年2月にミュンヘンでの安保会議で、米国の「一極支配」や北大西洋条約機構(NATO)の拡大を批判、ロシア外交の変化を印象付けたが、今回の演説はミュンヘン演説とともにプーチン大統領の重要な外交演説として記録に残るだろう。
聖ゲオルギーの間での演説では、「西側諸国のエリート」は「新植民地主義」を実践、ドルと技術力を道具に「世界を収奪」、自分たちの命令に従わない国の「主権を完全否定」し、その統治は「全体主義、専制主義、人種差別主義の特徴を有する」と断じた。
西側世界批判の下りでは、「伝統的な信仰や価値観の破壊、自由の抑圧はサタニズム(悪魔主義)という反宗教の特徴を帯びている」と述べた。ジェンダーフリーの潮流もやり玉に挙げたのだが、「サタニズム」を持ち出したことには驚いた。
ちなみにこの演説では日本が2度言及されている。1つは米国が広島と長崎に原爆を投下したこと。2つ目は、現在、日本がドイツ、韓国などと並んで米国に「占領」されていると指摘した下りだ。米軍基地が置かれていることを指すのだろう。
この演説を聞くと、ウクライナ侵攻を決断した背景には、米欧主導の世界秩序への強烈な反発があることがわかる。プーチン大統領独特の言い回しがちりばめられており、ウクライナ戦争はやはり、プーチン大統領の個人的考えを色濃く反映した「プーチンの戦争」だという思いを強くする。
西側諸国が世界を収奪しているというのだから、世界にはロシアの行動を支持する国が多いはずだが、9月30日、国連安保理でウクライナ東部と南部での住民投票を非難する決議に中国、インド、ブラジル、ガボンは棄権した。つまり、中国などは併合を支持しないということだ。
併合を支持するとすれば、北朝鮮、ベラルーシ、キューバ、そのほか数カ国ぐらいだろう。カザフスタンなどロシア主導の軍事同盟である集団安全保障条約機構(CSTO)の加盟国の中にでさえ承認しない国があるだろう。
4地方を併合すると、当然、ロシアはこれら「ロシア領土」を防衛しなければならなくなる。プーチン大統領も演説で「我々は持てるあらゆる力と手段で我々の領土を守り、わが国民の安全な生活を保障するため尽力する」と述べた。
こうした表現は何度か繰り返されてきた。「あらゆる手段」には核兵器も入る。今回の演説で、核兵器使用について踏み込んで発言するかどうかに注目したが、それ以上は言わなかった。
従って今後、4地方、あるいは2014年に併合したクリミア半島をウクライナ軍が奪回しそうになった時に、ロシアが核兵器を使用するつもりかどうかは定かではない。しかし、併合でその危険度が上がったことは間違いない。
演説の中には、ウクライナとの交渉を呼びかけた下りがあり、不思議に思った。「我々はキエフの政権に直ちに攻撃、すべての戦闘行動をやめ、交渉のテーブルに戻るよう呼びかける。何度も言ってきたように我々にはその用意がある」とプーチン大統領は述べた。
だが、彼は続けて、4地方の住民が下した決定を変えることはあり得ず、「キエフ(キーウ)政権はこの自由な選択を尊重すべきで、その場合にのみ和平の道が存在する」と述べた。 これでは交渉など成立するわけがない。
すべての戦争は基本的には外交交渉で解決される。だが、今はその展望はまったくない。領土問題の解決を含む和平の成立はとうてい無理だとしても、停戦合意の可能性はあると期待したいところだが、それもいまはゼロだ。
朝鮮戦争は3年経ってようやく休戦が実現した。ウクライナ戦争も少なくともそのくらいは続くのかもしれない。当然、双方の兵士、市民の犠牲は増え、さまざまな悲劇が繰り返される。
プーチン大統領は演説で、併合の意義も説いた。4地方は今のロシアの源流となる国家「古代ルーシ」(9世紀~13世紀半ば)以来、ロシアと「精神的絆」で結ばれていると指摘した。それはそうかもしれない。だが、その絆を併合と直結させるには無理がある。これも歴史好きのプーチン大統領に特有の主張だ。
彼は今回の併合を国連憲章第1条に合致していると言い切った。確かに第1条には「人民(民族)の自決の原則の尊重」がうたわれている。4地方の住民が投票でロシアに編入されたいとの意思を示したのだから、尊重されるべきであり、併合は国際法上何も問題はないと言いたいのだろう。
だが、占領者が占領地域で勝手に併合の住民投票ができるという国際法など存在しない。
その上、プーチン大統領は国連憲章第2条に「領土保全」、つまり領土一体性に反する行為を慎むべきだとの規定があることには頬被りしている。
国際法の世界では、民族自決の原則とそれに反するかのような領土一体性の原則が共存し、その相克が起きることがある。しかし、既に指摘したように、今回のロシアのやり方は圧倒的多数の国によって否定されるだろう。
ロシアは2008年2月にセルビアの中のコソボがセルビアの同意なしに独立し、それを米欧など多くの国が承認したことを持ち出すのかもしれない。しかし、コソボは9年近く国連の管理下に置かれていたなど、様々な事情が異なる。国際司法裁判所も、拘束力はないが、2010年にコソボ独立は合法との判断を下している。
だが今回は、アントニオ・グテーレス国連事務総長が9月29日、住民投票について「国際社会が守るべきものすべてに反している。国連の目的と原則に背く行為だ」と異例のロシア非難を口にした。プーチン大統領は国連憲章を守っていると言うが、当の国連の事務総長にここまではっきりと非難されたことをどう受け止めるのか。
プーチン大統領が言う人民(民族)自決権の行使の論理はロシアにとって諸刃の剣であることも指摘しておきたい。
ソ連崩壊後の1990年代から2000年代初めにかけてロシア南部のチェチニャ(チェチェン共和国)で独立運動が広がり、それを阻止しようとするモスクワ中央政府との間で極めて残忍なチェチェン戦争が展開された。
また沿ボルガ連邦管区の中の一地方、タタルスタン共和国でも一時独立の気運が高まったことがある。
今後、チェチニャやタタルスタンなどで住民が自決権を行使し、独立を選択すれば、プーチン大統領はそれを認めるというのか。それともロシア国内は例外だというのだろうか。
ちなみに盟友の中国は2014年のロシアによるクリミア併合も、今回の4地方の併合も承認することはないだろう。仮に承認すれば、台湾やチベット、新疆ウイグル自治区で独立に関する住民投票が実施され、大多数が賛成すれば、受け入れることになってしまうからだ。
■小田 健(ジャーナリスト、元日経新聞モスクワ支局長)
1973年東京外国語大学ロシア語科卒。日本経済新聞社入社。モスクワ、ロンドン駐在、論説委員などを務め2011年退社。