なぜ200億ウォンも投じて「大韓帝国迎賓館」をまた建てるのか【コラム】

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なぜ200億ウォンも投じて「大韓帝国迎賓館」をまた建てるのか【コラム】

(写真:朝鮮日報日本語版)

【写真】取り壊される前の「惇徳殿」のかつての写真

 「米国の姫君の行幸」という寸劇の現場でもあった。乙巳勒約(いつしろくやく。第2次日韓協約)の2カ月前に当たる1905年9月に韓国へやって来た、米国のセオドア・ルーズベルト大統領の娘エリザベスがここに泊まった。エリザベスを姫君のような存在と考えた高宗は大いに歓待したが、米国がその直前、桂・タフト協定を結んで日本の韓国侵奪を容認していたことは全く知らずにいた。エリザベスは「皇帝らしい存在感はなく、哀れで、鈍感だった」と高宗をあざけった。滅亡を目前にした国が繰り広げた、笑えない外交戦だった。

 1897年に宣布した大韓帝国が「皇帝の国」を掲げたのは、明らかに「自主」を表明してのことだった。しかし実際は「外に華々しく内に貧しい」ものだった。王室が皇室へと格上げされたことによって膨れ上がった維持費は、民の負担するところとなった。皇帝の国を宣言した後に事実上新たに建てた徳寿宮には、惇徳殿・石造殿といった荘厳な西洋式の建物も新築した。同じ君主の下で無理な景福宮再造を行い、民の膏血(こうけつ)を絞ってから、わずか29年後のことだった。内実を整える改革は、「帝国」では少しも見られなかった。税金を出す民の方が逆に、国の借金を代わりに返してあげようと国債報償運動を繰り広げなければならなかった脆弱(ぜいじゃく)な国が、大韓帝国だった。

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