武装反乱の波紋、混沌のロシア…内部あつれきで政権崩壊の歴史多い(1)


重要なのは事態の本質的な原因だ。ワグネルの創設者エフゲニー・プリゴジン氏の反乱は、プーチン大統領の長期独裁に対する批判や権威主義に対する抵抗とは距離がある。弾薬などの補給と軍事作戦、そして戦争の主導権などロシアの軍事的ヘゲモニーをめぐり、プリゴジン氏がウクライナ戦争を総括してきたショイグ国防相、ゲラシモフ参謀総長らとの不和を繰り返したことが今回の反乱の導火線となった。

プーチン大統領の立場でも、今回の反乱事態は軍事分野の公式組織と非公式組織のトップ同士が内部的に争ったのと変わりない。世界が注目する中、プーチン大統領はベラルーシのルカシェンコ大統領が保護するプリゴジン氏を暗殺などで処理するのは難しい。今後、ワグネルを解体したり統廃合したりする場合、ウクライナ戦線への非公式的な兵力調達、米大統領選挙に対するインターネット工作、アフリカへの傭兵支援などで相当な負担を抱えることになりかねない。

注目されるのは、ロシアと旧ソ連の経験からみて、こうした内部のあつれきと争いが結局は敗戦や政権崩壊につながった前例が少なくないという点だ。第1次世界大戦初期の1914年にドイツ帝国とロシア帝国が両国国境地帯の東プロイセンでしたタンネンベルクの戦いが代表的な例だ。この戦闘に23万人の兵力を動員したロシア軍は、15万人の兵力のドイツ軍に比べて兵力・武器と輸送能力のすべてで劣っていなかった。

しかしロシア軍を指揮したアレクサンドル・サムソノフ将軍とポール・フォン・レンネンカンプ将軍は1905年の日露戦争当時から不和を繰り返した「天敵」だった。このため両将軍はタンネンベルクでも協力せず、これを看破したドイツ軍に撃破され、多くの兵力が包囲または殲滅された。その後、ドイツとオーストリア・ハンガリーに劣勢になったロシア帝国とロマノフ王朝は結局、1917年3月に革命で崩れた。

3月革命で登場した議会多数派の指導者アレクサンドル・ケレンスキーの臨時政権も内部の亀裂で転覆した。1917年9月に戦争の英雄ラブル・コルニーロフ総司令官がクーデターを図って失敗し、臨時政権は国民の信頼を失って大きく揺らぐことになった。これを機に同年11月、ボリシェヴィキが武装蜂起で権力を握り、これはロシア内戦とソ連の誕生につながった。プーチン大統領が24日の演説で「ロシアが第1次世界大戦中の1917年にも背中を刃物で刺す攻撃が加えられた」と述べたのも、これを意味するものとみられる。

旧ソ連時代も同じだった。1991年8月、ゴルバチョフの改革に反対する保守派がクーデターを起こして失敗した。しかしこの事件をきっかけに大きく揺れた旧ソ連は結局、同年12月に崩壊した後、12の独立国家に再編される運命を迎えることになった。

その後、新しいロシアの政治的求心点となったエリツィンは共産党を不法化し、市場経済への体制転換を主導した。しかし最高ソビエト会議が急速な変化にブレーキをかけて葛藤が深まり、1993年には憲政の危機まで迎えた。エリツィンが同年9月に議会を解散すると、議会が2日後にエリツィンを弾劾し、葛藤はピークに達した。エリツィンはモスクワに軍隊を呼んで議会を占領してこそ、事態を収拾することができた。大統領と議会が首都の真ん中で流血劇を繰り広げたのだ。

今回の反乱で表れたプーチン大統領の対処方式にもこうした歴史的な背景が少なからず作用したというのが西側メディアの見方だ。プーチン大統領が流血事態を避けるためにルカシェンコ大統領の仲裁案を受け入れたのは、武装反乱による波紋を少しでも減らそうという意図があるという分析だ。



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