<キャンパる>1mの距離にいた友人は立てず 被爆を語り継ぐ91歳、去来する思い

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女学校1年生の時の米吉さん。小学生時代はクラスでもトップの成績を取るほど優秀だったという=米吉さん提供

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 ◇草刈り作業中、突然感じた光と熱さ

 米吉さんは1932年に広島市の中心街、現在の中区で米屋を営む一家の長女として生まれた。45年4月、広島県立広島第二高等女学校に進学。原爆が投下された8月6日は、第二県女の生徒のうち米吉さんを含む1年生100人全員と、2年生の半分の50人、計150人が朝から市内の東練兵場で畑の草取りに動員されていた。爆心地から2・5キロ離れた場所だった。

 「頭の上にB29が来とるよ」。生徒の一人が米軍の爆撃機B29の飛来に気づいて叫んだ。かがんで裸足で作業をしていた米吉さんは突然、強烈な光と熱さを感じた。「ピカーッと光った。光ったと同時にアツーいうような。ほいじゃけどお湯がかかったんじゃなし、火が落ちてきたわけじゃなし、球が落ちてきたわけじゃなし。光ったと同時に熱線が出たんでしょうね」。米吉さんは目と耳を塞いで、地べたへかがみこんだ。

 どのくらい時間がたったのか分からない。友人たちの泣き声や叫び声に気がついた。初めて目を開けてみたら、爆風で真っ暗闇だった。1メートル離れた場所にいた友人も見えないくらいだった。その友人は全身やけどで皮膚が垂れ、目は見えなくなり、足は動かせなくなっていた。声をかけても、立ち上がることはできなかった。米吉さん自身も、背中にひどいやけどをしていた。

 離れた場所に置いてあった靴と荷物を取りに向かうが、爆風で木は倒れ、建物はひっくり返り、荷物は散乱していた。どっちを向いて逃げようか、うろうろしていたら、先生が「ついてこーい! ついてこーい!」と大声で呼びかけるのが聞こえた。その声を頼りに、一生懸命走った。「先生の声を外したらどこへ逃げていいのか分からんのじゃから。一生懸命走った」。しかし、屋根やがれきが飛び散って、道らしい道はなかった。

 ◇帰宅途中、目にした地獄絵図

 先生を追い、先生の家に着いた。周囲は家が焼けていた。先生は約20人の生徒を、山の上へ避難させた。そこに、どのくらいいたのかも分からない。ただ、広島市内の大火が下火になったのを見計らい、解散になった。

 家を目指す途中、川にかかる鉄橋を渡ろうとしたとき、数メートル下の川には、水が見えないほど人が浮いていた。「やけどした人やらが皆、川に入って流されたり、飛び込んだりして、息絶えた人がいっぱい浮いていた」

 広島市中が火事になったせいで、熱くてたまらなかった。米吉さんは裸足で歩き続けた。途中、消防団のおじさんたちが「やけどをしとるねえ。元気でおったら家族に会えるんじゃけ、小学校が救護所になっとるけえ、あっこまで行って治療を受けんさい」と声をかけてくれた。

 小学校に到着すると、身体にガラスが刺さって、まるで幽霊にしか見えない人たちが行列していた。恐ろしい光景だった。米吉さんのやけどの症状も重かったのだが、「私のような、軽いやけどの人間が並んだらいけん」と思い直し、列に並ぶのを諦めた。

 校舎の壁に背中をつけて一夜を明かした。校庭にいっぱい穴が掘ってあり、死んだ人が山積みにしてあった。石油をかけて火をつけて、夜通し人を焼いて片付けていたようだ。その場所で、2000体焼いたのが分かっている。

 翌朝、やけどの痛みをこらえながら再び歩き始め、かろうじて焼け残った家で、父と再会することができた。他の兄弟もみな疎開で広島市を離れていたため、家族全員無事だった。

 米吉さんと一緒に農作業をしていた同級生らは、全員、多かれ少なかれやけどを負った。また6日の当日、米吉さんら草刈り組とは別行動で、爆心地からより近い建物の取り壊しに従事した生徒39人は、ほとんどが死亡した。

 「運が良かったとは言いとうないんよ。死んだ人に悪い。死んだ人は運が悪いことになってしまう」。多くの学友を亡くし、自分が生き残ったことについて、米吉さんは過去にこう述懐している。

 ◇今も語り継ぐ被爆体験

 米吉さんは終戦後、女学校に復学し、卒業後に結婚。その後、長男と長女を出産し、現在も広島市内の自宅で暮らしている。

 米吉さんは80歳になる前、広島市の平和団体で被爆体験を語り継ぐ活動にも参加した。通訳を通じ、外国の方に向けて話す。話を聞き、痛みに共感してくれるのがうれしかったという。新型コロナウイルス感染症の流行をきっかけに、語り部活動自体は引退した。しかし、日課である毎朝の広島平和記念公園付近のウオーキングでは道行く旅行者に、今も被爆体験を話す機会があるのだという。「生きとる者の務めとして一人でも多くの人に伝えたい」と語気を強めた。

 原爆投下から78年。広島では今年5月、主要7カ国首脳会議(G7サミット)が開催された。世界の主要国の首脳が初めて広島に集い、原爆死没者を慰霊し、平和記念資料館に足を運んだことについて、米吉さんは「成功とは言わないけど、良かったと思っている」と感想を語った。被爆地の思いは、一朝一夕では世界に届かない。「ああいうことはひとつひとつ積み上げていくもの」と米吉さんは話した。

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