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CBCテレビ
戦後78年。亡くなって初めて、父親が被爆者だったことを知ったある女性の話です。初めて息子と共に“ヒロシマ”を訪れた女性の思いとは。
【写真を見る】優しかった父は “被爆者” だった 父の死後 初めて知った事実…被爆2世の女性は息子と広島へ「父が話さなかった分まで伝えていきたい」
■学童の子どもたちに毎年語る“お話”
夏休みまっただ中の学童保育。三重県津市の南が丘たんぽぽクラブです。毎日200人以上の子どもを預かっています。
ここで働く鈴木理恵子さん(60)は、子どもたちから“すーず”と呼ばれ親しまれるベテラン指導員です。9日、理恵子さんが語りかけたのは…。
(鈴木理恵子さん)
「きょう8月9日は長崎に原子爆弾、原爆が落ちた日です」
理恵子さんは、毎年この時期に原爆の話をします。自分にも関わりのある、原子爆弾。
1945年8月6日。B29が広島に落とした原爆「リトルボーイ」。その年の暮れまでに、およそ14万人が死亡しました。
(鈴木理恵子さん)
「そのときにアメリカから落とされた原爆で、すーずのおじいちゃんおばあちゃんは亡くなりました」
爆心地の近くに住んでいた祖父母は、原爆の犠牲になりました。当時5歳だった理恵子さんの父、公治さんは疎開していて無事でしたが、1週間後、兄(当時19)といっしょに両親を探しに爆心地に入り、被爆したのです。
それから50年後、公治さんは1996年、56歳の時に白血病で亡くなりました。
理恵子さんは父の死後初めて、“その事実”を知ることになります。
■一言も語らず…“被爆者”だった父
(鈴木理恵子さん)
「父が亡くなって遺品整理をしているときに被爆者手帳が出てきて、そのときに初めて、『あっ被爆者だったんだ』と知って」
父の白血病は、闘病中に「被爆の後遺症」と認定されていました。
(鈴木理恵子さん)
「被爆2世ということで、私の将来のこととか気にかけていたので、誰にも言わなかったじゃないかと思っています」
全く知らなかった父の話。
その後、一緒に被爆した父の兄、自分にとっての伯父、雅美さん(2000年に死去)が残した手記を読んで、詳しい状況を知ることに。
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