『ブギウギ』なぜ裕福でもない養父・養母が育てることになったのか?宝塚受験を決意したきっかけとは?朝ドラモデル・笠置シヅ子誕生秘話

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10月2日から放送が始まったNHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』。笠置シヅ子役のモデルとなった大スターの半生について、その始まりを知るために、私たちは”ブギウギ伝説”の中に飛び込んでみましょう。

笠置シヅ子はこうして生まれた

笠置シヅ子(本名・亀井静子)は1914(大正3)年8月25日、香川県大川郡相生村で生まれました。

父は郵便局に勤めていた三谷陳平、母は三谷家で和裁を学んでいた谷口鳴尾です。しかし、彼らの結婚は認められず、未婚のまま静子が生まれることになりました。

ちょうどその頃、大阪から出産のために帰郷中だった亀井うめが、自分の子の授乳の合間に、静子にも添え乳をしてくれました。うめは徐々に静子に愛情を持ち始めました。シングルマザーである鳴尾が一人で赤ちゃんを育てることは大変だろうと思ったのです。そして、うめは静子を養女として受け入れることを決めました。

養父の音吉は大阪で米や薪炭商を営んでいましたが、裕福とは言える状態ではありませんでした。しかし、うめは故郷から二人の赤ちゃんを連れて帰ってきたとき、驚きながらも静子を自分の娘として育てる決心をしたのです。

音吉とうめ夫婦は芸事が好きで、静子は3歳の頃から日本舞踊や三味線などの習い事を始めました。1921年、静子は下福島小学校に入学し、亀井ミツエから志津子という名前になりました。この頃、音吉は風呂屋に転業していました。

1918年、日本全国で米の価格が急騰し、暴動事件である米騒動が起きました。音吉も大きな打撃を受け、近所にあった銭湯の売り物を手に入れ、風呂屋を開業することにしました。

静子は銭湯の脱衣場で踊りや歌を披露し、近所で評判になりました。小学校では唱歌が得意で、成績もいつも優秀でした。少女時代の静子は、この頃にショウマンシップと度胸を培いました。

当時、大阪ではモダン文化が隆盛していました。大正時代には道頓堀やミナミを中心に、アメリカの最新音楽であるジャズが流れていたのです。

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このように、笠置シヅ子の人生は養父・養母によって築かれました。彼女の才能と努力によって、後に「ブギの女王」として一世を風靡することになるのです。

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