養母と弟を失った『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子。仕送り増額のために移籍オファーを受けたら大騒動に…シヅ子に相談された服部良一が見せた「覚悟」とは

NHKの朝の連続テレビ小説『ブギウギ』の主人公である笠置シヅ子のモデルについて、映画研究家で歌謡曲プロデューサーの佐藤利明さんは、「歌が大好きな風呂屋の少女が<ブギの女王>として一世を風靡する」と語っています。当時、映画界やショウビジネスの世界では人気スターの引き抜き合戦が頻繁に行われており、そのターゲットにもなったのが笠置シヅ子でした。

引き抜き騒動

1940年、松竹楽劇団のホームグラウンドである丸の内の帝国劇場が契約切れで東宝に戻りました。その後、6月上旬に服部良一と笠置シヅ子が浅草・国際劇場で「ラ・クンパルシータ」を上演しました。そして、6月下旬には国際劇場でSGDハワイアン・バンドが登場し、シヅ子は「マリヒニ・メレ」を歌いました。このハワイアン・ジャズがSGDの新機軸となりました。

その後、笠置シヅ子に東宝からの移籍オファーがありました。樋口正美からの声がけで、シヅ子は日比谷・有楽座の事務所へ行ったのです。「まずは日本劇場へ、日劇ダンシングチームと一緒に出演して欲しい」というオファーで、給料は300円という驚きの条件でした。松竹よりも100円もギャラがアップする条件でした。

OSSK(大阪松竹少女歌劇団)時代には、月給の上昇を求めるだけでクビになってしまったシヅ子は、ギャラアップの交渉の困難さを「桃色争議」でも経験しました。そのため、彼女はこの好条件に素直に喜びました。

しかし、この時期に養母のうめが亡くなり、弟の八郎は中国戦線へ(編集部注:翌年に戦死)、養父の音吉は働く気力を失っていました。シヅ子は養家への仕送りを増額したいと考えていた矢先でした。そのため、シヅ子は迷わず契約書にサインしてしまいました。しかし、これが大騒動の始まりでした。

シヅ子は困り果てて服部良一に電話をしました。(写真提供:PhotoAC)

シヅ子の電話相談

Source: 日本ニュース24時間


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