【町工場の星】社員が辞めない!女性社長が率いるダイヤ精機の秘密

息子の治療費捻出のために生まれた町工場

東京・大田区にある町工場、ダイヤ精機。2代目社長の諏訪貴子さんは、異色の経歴を持つ女性経営者として知られています。元々は専業主婦だった諏訪さんが、父の会社を継ぐことになった背景には、会社の創業と深く関わる家族の物語がありました。

1961年、諏訪さんの兄が誕生しました。しかし、喜びも束の間、3歳の時に白血病を発症。高額な治療費を捻出するため、当時サラリーマンだった父は、親戚から機械と従業員を譲り受け、ダイヤ精機を創業しました。高度経済成長期の真っ只中、ものづくりは大きなビジネスチャンスに溢れていました。

両親は、息子に最善の治療を受けさせようと奔走しましたが、1967年、兄は6歳という若さでこの世を去ってしまいます。深い悲しみに暮れる両親。父は会社を畳むことも考えましたが、周囲の支えもあり、事業を続けることを決意します。そして、次の目標として「ダイヤ精機の跡継ぎを育てたい」という強い思いを抱くようになりました。

「お兄ちゃんの生まれ代わり」として育った幼少期

諏訪さんには姉がいましたが、当時は「女性は結婚して家庭に入るもの」という時代。父は「女の子では跡継ぎにはならない」と考え、息子を切望しました。そんな中、1971年に誕生したのが諏訪さんでした。

生まれたのが女の子だと知った父は、ひどく落胆したと言います。諏訪さんが生まれた後、父は母が入院する病院に一度も顔を出さなかったそうです。

「あなたはお兄ちゃんの生まれ代わりよ」。幼い頃から繰り返し聞かされて育った諏訪さん。そのためか、幼い頃から電車、車、戦隊モノ、プラモデルなど、男の子が好むおもちゃや遊びに夢中になっていました。それは、まるで無意識のうちに「兄の生まれ変わり」として生きる道を選んでいるかのようでした。

そんな諏訪さんの姿を見て、父は諏訪さんをダイヤ精機の跡継ぎにしようと決意します。会社に連れて行ったり、取引先に同行させたりと、諏訪さんと「会社」「仕事」との接点を積極的に作っていきました。

諏訪貴子さんと父親の諏訪保雄さん諏訪貴子さんと父親の諏訪保雄さん

後継者としての自覚はなかった

諏訪さん自身は、会社を継ぐことなど考えたこともありませんでした。しかし、大学進学の際には「工学部以外は認めない」と父に言われ、成蹊大学工学部に進学します。

兄の代わりに生まれ、幼い頃から「跡継ぎ」として育てられた諏訪さん。しかし、それは決して平坦な道のりではありませんでした。

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