【光る君へ】孫を早く天皇にしたい「道長」のえげつなさ 三条天皇を追い詰めたやり口


やっと「本性」を見せるようになった道長

【画像】“大河”劇中とはイメージが変わる? 「彰子」を演じた見上愛

 そうはいっても、「多少」とはいえない強引さで権力を固めていった藤原道長(柄本佑)を、「闇落ち」させずに描けるのかと、記事を読んで半信半疑だった。実際、ここにきて描かれる道長はかなり強引な権力者になってきた。

 第40回「君を置きて」(10月20日放送)では、一条天皇(塩野瑛久)が体調を崩し、譲位の末に崩御した。その直前、譲位に合わせて次の東宮(皇太子)を決めるにあたり、道長は皇后定子(高畑充希)が産んだ敦康親王(片岡千之助)を排除し、自分の長女である中宮彰子(見上愛)が産んだ敦成親王(濱田碧生)を選ぶことに、徹底的にこだわった。

 一条天皇も彰子も、第一皇子である敦康親王を東宮にしたかった。彰子にとって、血がつながっていない敦康親王だったが、定子の死後、8年にわたり母親代わりとして育ててきただけに、思いは深かった。それに彰子は、第二皇子の敦成親王は、何年かのちに東宮になればいいと考えていた。

 だが、この時代には老年とされた40代半ばに達していた道長にとっては、それでは自分が天皇の外祖父として君臨する機会を逸しかねない。だから、なんとしてもここで孫の敦成を東宮にしたかったのである。

道長にとっては「無駄な歳月」

 したがって、この親子の対決は、同様の修羅場があったかどうかはわからないが、史実を踏まえている。また、彰子に対する道長の「帝がお決めになったこと」「お怒りのわけがわかりませぬ」といった返事も、「政を行うは私であり、中宮様ではございませぬ」という決め台詞も、いかにもこのときの道長らしい。

 史実を追うかぎり、道長にはこのような強引さがあり、人心を掌握しつつも、強引な決定をいとわなかったからこそ、あれほど権力を自身に集中させることができた。そして、この強引さは、一条天皇に代わって即位した居貞親王、すなわち三条天皇に対しても、いかんなく発揮された。

 25年続いた一条天皇の治世においてずっと東宮だった居貞親王は、即位したとき、もう35歳だった。そうなった理由に「両統迭立」がある。この時代は、ともに村上天皇の子であった兄の冷泉天皇と弟の円融天皇の系統が、交互に即位する慣わしになっていた。このため、冷泉天皇の長男だった花山天皇の次には、円融天皇の子である一条天皇が即位した。このねじれのせいで、冷泉天皇の第二皇子で、一条天皇より4歳年上の居貞親王が、一条天皇の後を継ぐことになったのである。

 だから、三条天皇にすれば、四半世紀待った末の我が世の春だったと思われるが、敦成親王を早く即位させたい道長にとっては、三条天皇の治世は無駄な歳月だったと言っていいだろう。山本淳子氏も「三条天皇が即位したその時から道長の心は秒読みを始めていたに違いない。早く、一刻も早く辞めてくれないかと――」と記している(『道長ものがたり』朝日選書)。



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