暴力団抗争、それはまるで映画の世界のような出来事と思われがちですが、現実社会においても深刻な脅威であり続けています。昭和60年に発生した山口組四代目組長、竹中正久氏の射殺事件は、まさにその象徴的な出来事と言えるでしょう。今回は、この事件をきっかけに激化した「山一抗争」の渦中に巻き込まれ、生死の境をさまよった元兵庫県警捜査員の岡田智博氏(仮名)の証言を通して、抗争の恐ろしさと警察官としての使命感について深く掘り下げていきます。
山一抗争の激化と若き警察官の体験
竹中組長射殺事件の翌年、昭和61年に兵庫県警に入職した岡田氏は、まさに山一抗争の激化という嵐のまっただ中に身を投じることとなりました。当時、山口組と分裂した一和会との抗争は熾烈を極め、各地で発砲事件が頻発していました。岡田氏が配属された東灘署管内には、一和会会長の山本広氏の自宅があり、警察官による警備が行われていました。
巡査、襲撃される
昭和63年5月14日未明、パトロール中の岡田氏は、山本会長宅付近で警備中の同僚と合流しました。パトカー内で業務報告をしている最中、背後から足音が近づいてきました。「お前らどこ行くんや」という先輩巡査の声に続き、男が釣竿のようなものを車内に差し込んできた瞬間、轟音と激痛が岡田氏を襲いました。
昭和60年、竹中正久・山口組四代目組長が銃撃された現場
生死の境をさまよい、そして…
右耳付近と右手などに3発の銃弾を受けた岡田氏は、一命を取り留めたものの、医師からは「1センチずれていたら死んでいた」と告げられました。同僚たちも重傷を負い、生死の境をさまよいました。数ヶ月に及ぶ治療とリハビリを経て現場復帰した岡田氏は、署長から警察職員への転向を勧められます。しかし、「犯人を取り逃した」という強い責任感から、その申し出を断りました。
警察官としての覚悟と抗争終結への願い
当時24歳だった岡田氏は、30歳で家業を継ぐという将来設計も描いていました。しかし、市民の安全を守るという警察官としての使命感から、警察官人生を続けることを決意しました。その後、洲本署長などを歴任し、今年3月に退職するまで、警察官として第一線で活躍し続けました。
岡田氏の経験は、暴力団抗争の残忍さと、それに立ち向かう警察官の勇気と覚悟を如実に物語っています。暴力団抗争は決して過去の出来事ではなく、現在もなお社会の影に潜む脅威です。私たちは、岡田氏のような警察官の献身的な努力に感謝するとともに、暴力団撲滅に向けて、社会全体で取り組んでいく必要があるのではないでしょうか。
暴力団抗争撲滅のための取り組みは、警察の力だけでは限界があります。地域住民の協力、そして社会全体の意識改革が不可欠です。犯罪組織の温床を断ち、安全で安心な社会を築くために、私たち一人ひとりができることを考えていかなければなりません。