青木盛久氏が11月9日朝、85歳で逝去されました。ご家族によると、2年前から闘病生活を送っていたとのことです。青木氏は1996年のペルー日本大使公邸人質事件で、127日間にも及ぶ過酷な人質生活を経験されました。この記事では、青木氏の外交官としての功績、人質事件における不屈の精神、そしてその後の歩みを振り返ります。
ペルー大使として、そして人質事件の渦中へ
青木氏は1963年に外務省に入省後、国際協力事業団(現JICA)青年海外協力隊事務局長、ペルー大使、ケニア大使など要職を歴任しました。外交の最前線で国際貢献に尽力した青木氏ですが、ペルー大使在任中の1996年12月、左翼ゲリラ「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」による大使公邸占拠事件という未曾有の危機に直面しました。ペルー政府要人や在ペルー日本企業の駐在員らと共に、127日間もの間、人質として拘束されるという想像を絶する体験をされました。
青木盛久・元ペルー大使
127日間の葛藤と解放の喜び
人質となった青木氏は、極限状態の中でも冷静さを失わず、他の日本人人質と共に、ゲリラとの交渉や情報収集に尽力しました。この緊迫した状況下で、青木氏が発揮したリーダーシップと勇気は、多くの人々の心を打ちました。そして1997年4月、ペルー軍特殊部隊による見事な作戦により、青木氏を含む人質全員が無事救出されました。解放の瞬間は、世界中に感動と安堵をもたらしました。
奪回作戦の副隊長と握手する青木さん
事件後、そして平和への願い
解放後も青木氏は、国際協力の重要性を訴え続けました。人質事件という過酷な経験を通して、平和構築の必要性を改めて認識した青木氏は、講演や著作を通じて、自らの体験を語り継ぎ、国際社会への貢献に尽力しました。外交官としての長年の功績、そして人質事件における不屈の精神は、後世に語り継がれるべき貴重な財産と言えるでしょう。
青木氏の功績を偲び、平和への祈りを込めて
葬儀は11月10日に近親者のみで行われました。妻の直子さんが喪主を務めました。青木氏の逝去は、日本外交界にとって大きな損失です。しかし、青木氏が生涯をかけて追求した平和への願いは、私たちの中に生き続けていくことでしょう。jp24h.comでは、青木氏の功績を偲び、心よりご冥福をお祈りいたします。
ペルー日本大使公邸人質事件とは?
1996年12月17日、ペルーの首都リマにある日本大使公邸で、天皇誕生日祝賀レセプションの最中に、左翼ゲリラ「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」のメンバーが公邸を襲撃し、約700人の出席者を人質に取った事件です。事件は127日間続き、1997年4月22日にペルー軍特殊部隊による武力突入作戦によって解決されました。人質の大半は事件発生直後に解放されましたが、青木大使を含む72名が最後まで人質として拘束されました。この事件は、国際テロの脅威を改めて世界に知らしめました。