未成熟の小さなクジラまで…「捕鯨一筋」の男が明かした調査捕鯨の「虚しさ」とは?


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● 昭和の商業捕鯨を知る 最後の男が語る激動のクジラ人生

 「クジラが捕れると疲れが一気に吹き飛びますね」

 2022年9月24日午後3時15分。日新丸のブリッジで、第三勇新丸からニタリクジラ捕獲の報を受けた船団長・阿部敦男は、表情をホッとほころばせた。

 日新丸、第三勇新丸の2隻をたばねる船団長は、海図、海面水温予想図、海流、気候、過去の捕獲実績などあらゆる条件を勘案した上で、その日に操業する海域、捕獲する種類や数を決める現場の総責任者だ。

 それまでの緊張感が漂う雰囲気から一転した、いつもの阿部の滑らかな口調が、船団長の責任の重さを感じさせた。

 「やっぱりね、ぼくは捕鯨会社に入社したわけで、調査会社に入ったわけじゃありませんから。32年も調査を続けて、やっと本来の自分の仕事に戻れた」

 阿部は、昭和の商業捕鯨を知る数少ない船乗りだ。

 昭和の商業捕鯨から平成の調査捕鯨を経て、令和に再び商業捕鯨へ。やっと本来の自分の仕事に戻れた。その短い一言に、捕鯨論争に翻弄された男の感慨が集約されているように思えた。

 阿部が日本共同捕鯨に入社したのは1981年。調査捕鯨への移行は、その6年後の1987年。入社以来、食堂で給仕をするサロンボーイを振り出しに、甲板部員、航海士、砲手、船長、船団長と捕鯨のあらゆる仕事を経験した。

 「いつの間にか人生と捕鯨が一体になってしまいました」

 阿部の言葉には偽りも誇張もない。振り返ると、日本の捕鯨が残した航跡は曲がりくねっている。

 IWC(国際捕鯨委員会)では、科学や合理性が無視された政治的な駆け引きが行われてきた。

 針路が変わるたび、文字通り阿部たちが南極海の荒波をかぶり、頬を削るような寒風にさらされながら、クジラと向き合い続けてきたのである。

 現場では何が起きていたのか。

 捕鯨と一体となった阿部の人生は、IWCに振り回された捕鯨の現代史そのものだった。

● 入社2年目の1982年に 初めて南極海を経験した

 阿部がはじめて南極海を経験したのは、入社2年目の1982年のことだ。

 40万頭か、2万頭か。大隅(編集部注/大隅清治。世界の鯨類研究をリードした「クジラ博士」)の論文が引き起こしたクロミンククジラ論争をきっかけにスタートしたIDCR(国際鯨類調査10ヵ年計画)にたずさわったのである。

 1982年は、商業捕鯨モラトリアムが採択された年でもあった。

 阿部自身は、さほど深刻に受け止めていなかった。それは、モラトリアムが8年後の1990年に見直され、商業捕鯨が再開できると考えていたからだ。

 そして迎えた1986年の漁期。1941頭のクロミンククジラを捕獲し、昭和の商業捕鯨は終わりを迎える。阿部も最後の商業捕鯨を経験した。



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