日本の商業捕鯨は、2019年のIWC(国際捕鯨委員会)脱退以降、再開されている。だが、そこに至る道は平坦ではなかった。IWCによる政治的な駆け引きに翻弄され、激動を重ねた捕鯨史の一部始終を知る生き証人が、ドラマティックな実話を明かす。本稿は、山川 徹『鯨鯢の鰓にかく:商業捕鯨 再起への航跡』(小学館)の一部を抜粋・編集したものです。
● 昭和の商業捕鯨を知る 最後の男が語る激動のクジラ人生
「クジラが捕れると疲れが一気に吹き飛びますね」
2022年9月24日午後3時15分。日新丸のブリッジで、第三勇新丸からニタリクジラ捕獲の報を受けた船団長・阿部敦男は、表情をホッとほころばせた。
日新丸、第三勇新丸の2隻をたばねる船団長は、海図、海面水温予想図、海流、気候、過去の捕獲実績などあらゆる条件を勘案した上で、その日に操業する海域、捕獲する種類や数を決める現場の総責任者だ。
それまでの緊張感が漂う雰囲気から一転した、いつもの阿部の滑らかな口調が、船団長の責任の重さを感じさせた。
「やっぱりね、ぼくは捕鯨会社に入社したわけで、調査会社に入ったわけじゃありませんから。32年も調査を続けて、やっと本来の自分の仕事に戻れた」
阿部は、昭和の商業捕鯨を知る数少ない船乗りだ。
昭和の商業捕鯨から平成の調査捕鯨を経て、令和に再び商業捕鯨へ。やっと本来の自分の仕事に戻れた。その短い一言に、捕鯨論争に翻弄された男の感慨が集約されているように思えた。
阿部が日本共同捕鯨に入社したのは1981年。調査捕鯨への移行は、その6年後の1987年。入社以来、食堂で給仕をするサロンボーイを振り出しに、甲板部員、航海士、砲手、船長、船団長と捕鯨のあらゆる仕事を経験した。
阿部は昭和の商業捕鯨を知る最後の世代である。
「いつの間にか人生と捕鯨が一体になってしまいました」
阿部の言葉には偽りも誇張もない。振り返ると、日本の捕鯨が残した航跡は曲がりくねっている。
IWC(国際捕鯨委員会)では、科学や合理性が無視された政治的な駆け引きが行われてきた。
針路が変わるたび、文字通り阿部たちが南極海の荒波をかぶり、頬を削るような寒風にさらされながら、クジラと向き合い続けてきたのである。
現場では何が起きていたのか。
捕鯨と一体となった阿部の人生は、IWCに振り回された捕鯨の現代史そのものだった。
● 入社2年目の1982年に 初めて南極海を経験した
阿部がはじめて南極海を経験したのは、入社2年目の1982年のことだ。
40万頭か、2万頭か。大隅(編集部注/大隅清治。世界の鯨類研究をリードした「クジラ博士」)の論文が引き起こしたクロミンククジラ論争をきっかけにスタートしたIDCR(国際鯨類調査10ヵ年計画)にたずさわったのである。
1982年は、商業捕鯨モラトリアムが採択された年でもあった。
阿部自身は、さほど深刻に受け止めていなかった。それは、モラトリアムが8年後の1990年に見直され、商業捕鯨が再開できると考えていたからだ。
そして迎えた1986年の漁期。1941頭のクロミンククジラを捕獲し、昭和の商業捕鯨は終わりを迎える。阿部も最後の商業捕鯨を経験した。