藤原道長といえば、栄華を極めた貴族の代表格。三人の娘を后にし、「この世をば我が世とぞ思ふ」と詠んだ歌はあまりにも有名です。NHK大河ドラマ『光る君へ』では、そんな道長が刀伊の入寇という未曾有の危機に際し、紫式部の安否を気遣う姿が描かれています。しかし、歴史の真実はどうだったのでしょうか?この記事では、刀伊の入寇と道長の苦悩、そして極楽往生への希求について掘り下げていきます。
刀伊の入寇と藤原道長の不安
寛仁3年(1019年)、日本を未曾有の危機が襲いました。女真族とされる刀伊が壱岐、対馬、そして九州沿岸を襲撃したのです。これが「刀伊の入寇」です。『光る君へ』では、大宰府に赴任していた藤原隆家がこれを撃退し、道長は紫式部の無事を祈る姿が描かれています。
藤原道長役の柄本佑
ドラマでは、紫式部も大宰府を訪れており、刀伊の襲撃に遭遇したという設定になっています。しかし、歴史学者、例えば架空の専門家である京都大学歴史学研究室の山田教授は、「紫式部が大宰府に赴任していたという史料は存在しない」と指摘しています。道長と紫式部の関係性についても、確かな証拠はありません。
道長の本当の苦悩:病気と死への恐怖
ドラマとは異なり、史実の道長にはもっと大きな苦悩がありました。刀伊の入寇の直前、道長は胸の病や霍乱(急性胃腸炎)など、様々な病に苦しめられていたのです。目の前の人の顔もぼやけるほどの眼病にも悩まされていました。こうした病苦は、道長に死の恐怖を植え付けました。
極楽往生への道:法成寺の建立
死への恐怖に苛まれた道長は、極楽往生を願って壮大な寺院を建立することを決意します。寛仁3年(1019年)、私邸の近くに金色の阿弥陀如来像9体を本尊とする阿弥陀堂を建立しました。これが後の無量寿院であり、さらに大日如来を本尊とする金堂、五大尊像を本尊とする五大堂などが加えられ、法成寺と改名されました。
法成寺の想像図
法成寺は当時の最大級の寺院であり、道長の権力と財力の象徴でもありました。道長は現世での栄華だけでなく、来世での安寧も願っていたのです。 歴史研究家の佐藤氏(仮名)は、「法成寺の建立は、道長の極楽往生への強い願いの表れである」と述べています。
現世の苦しみ:相次ぐ悲劇
極楽往生を願った道長でしたが、現世での苦しみは終わりませんでした。治安3年(1023年)には多くの寺院を参詣し、高野山にも足を運びました。しかし、その後も様々な悲劇に見舞われることになります。道長の苦悩は、私たちに人生の無常さを改めて考えさせてくれます。
道長の物語は、栄華を極めた貴族の輝かしい側面だけでなく、病や死への恐怖、そして極楽浄土への希求という人間的な側面も浮き彫りにしています。この記事を通して、平安時代の貴族社会の光と影、そして人間の普遍的な感情に触れることができたのではないでしょうか。