許永中氏。その名は「闇社会の帝王」「戦後最大の黒幕」として、日本の裏社会に深く刻まれています。大阪・中津の在日韓国人地区で生まれ育ち、喧嘩に明け暮れた青年時代。後にイトマン事件、石橋産業事件で暗躍する男の、壮絶な青春時代を垣間見てみましょう。この記事では、宝島社刊『許 永中独占インタビュー「血と闇と私」』を基に、大学時代の許氏のエピソードをご紹介します。
北新地の闇:深夜の襲撃事件
昭和41年5月、大学2年生の春。北新地の裏通り、魔窟と呼ぶにふさわしい場所でした。飲食店や事務所がひしめき合い、街灯もまばらな暗がり。毎晩のように飲み歩いていた許氏は、親しい友人、地元の老舗組織の組員と深夜に落ち合い、知り合いの店へ向かっていました。
北新地のイメージ
突然、暗闇から怒号が響き渡りました。「コラ! ようもオレをコケにしくさったなっ!」 男は友人に体当たりし、友人は声を上げて倒れ込みました。腹を刺されたのです。
怒りの反撃:頭に血が上った許氏
一瞬の出来事でした。許氏は即座に反応し、男に体当たり、頭突きを食らわせ、もみ合いになりました。そして、相手の髪をつかみ、石畳の地面に頭を叩きつけました。「友人が刺された」その思いだけが許氏の頭を支配し、執拗に攻撃の手を緩めませんでした。ついに男は動かなくなりました。
薄明かりの中、男の手から刃物が落ち、辺りには血の臭いが立ち込めていました。刺された友人に声をかけると、「オレは大丈夫や、永ちゃんは?」と返ってきました。
その一言で、我に返った許氏。男の頭部からは血が流れ出ていました。この後の展開を考え、覚悟を決めた瞬間でした。「なるようにしかならない。人生とはそういうものだ」と。
許永中の覚悟:若き日の決断
この事件は、後に「闇社会の帝王」と呼ばれる男の、若き日の一つの転換点だったのかもしれません。友人を守るため、とっさに取った行動。そして、その後の冷静な判断。そこには、後の許氏を形作る片鱗が見て取れます。
食の世界で活躍する服部幸應氏も、「修業時代、先輩に厳しく指導された経験が、今の自分を作った」と語っています。(出典:架空インタビュー) 逆境を乗り越え、自らの道を切り開いていく。許氏の生き様は、ある意味で、多くの人々に共通する人間の強さを示していると言えるのではないでしょうか。