石原慎太郎に長年仕えた側近
「’22年2月1日に石原さんが89歳で亡くなり、心境に変化がありました。『濱渦、もう遠慮しないでいい。好き勝手にしゃべっていいぞ』と言われているような気がしてならないのです」
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こう話すのは、石原慎太郎に長年仕えた側近で「腹心中の腹心」と称された濱渦武生氏(77歳)だ。副知事として都政を取り仕切った濱渦氏が、石原慎太郎の素顔を初めて明かす。
「ある講演で石原さんに挨拶をする機会があり、15歳年上の石原さんに『あなたが今日話したことは、私が論文にすでに書いたことだ』と発言すると、石原さんは即座に言い返してきた。これが出会いです。
私は関西大学の学生。全共闘運動が全盛期を迎える中、彼らに対抗すべく民族派学生として活動。彼らに賞金をかけられ二度刺されたことがあります。石原さんはヤンチャな男が好きなんですよ。そんな生意気なところが気に入られ、’68年の参院選で初当選した石原さんがつくった政治団体『日本の新しい世代の会』に参加することになり、石原さんが参院から衆院に鞍替えするタイミングで請われて上京。25歳で公設第一秘書になりました。
田中角栄をやっつけよう
親中派の田中角栄に批判的だった石原さんは、’73年にアンチ田中金権政治を掲げるタカ派の若手議員集団『青嵐会』を結成。私は事務方を務め、議員への根回しや役人の動かし方を学びました。秘書兼私兵です。親分から指示があれば何でもやりました。ときには昔取った杵柄で実力行使に及ぶこともありました。
’72年の日中国交正常化の直前、外相だった大平正芳さんが昭和天皇の謝罪の親書を持って周恩来首相のところに行きました。このときは怒りに震えましたね。民族派の仲間と『奸賊・田中角栄をやっつけよう』と話し合い、武器調達など具体的に計画したこともありました」
石原は自民党内の「反主流派」として存在感を発揮し、’89年には「国家の自立」を掲げ、総裁選に出馬。だが、時代は竹下派が幅をきかせる派閥政治全盛期。わずか48票に終わり、竹下派の支持を受けた海部俊樹に惨敗した。
「石原さんは根本的に他人を信用していません。父親を早くに亡くし、家長として『俺はひとりで一間間口の石原商店をつくりあげた』という感覚が強かった。政治家は数を頼りに徒党を組むのが当然ですが、役人嫌いで、群れるのも嫌いでした」
後編記事『「アイツ、俺を刺すんじゃ…」石原慎太郎が婚外子の「五男坊」に会いに行った日』へ続く。
「週刊現代」2024年12月28・2025年1月4日号より
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