京都・八坂神社、実は明治まで名前も神様も違っていた!?その驚きの歴史を探る

古都・京都の中心に位置し、年間を通して国内外からの観光客で賑わう八坂神社。地元では親しみを込めて「祇園さん」と呼ばれ、祇園祭の舞台としても有名です。華やかなイメージの八坂神社ですが、実は明治時代以前は今とは全く異なる姿だったことをご存知でしょうか?この記事では、八坂神社の知られざる歴史、そしてその変遷について紐解いていきます。

明治維新以前、「祇園社」と呼ばれていた八坂神社

八坂神社の古い写真八坂神社の古い写真

現在、八坂神社の主祭神はスサノオノミコト、クシナダヒメノミコト、そして二人の間に生まれた御子神とされています。しかし、明治維新以前は「祇園社」や「祇園感神院」、「観慶寺感神院」などと呼ばれ、祭神も牛頭天王でした。牛頭天王は疫病除けの神として信仰を集めており、祇園社もまた疫病鎮護の祈願所として人々の心の拠り所となっていました。

神仏習合の象徴、祇園感神院

明治以前の日本では、神道と仏教が融合した神仏習合という信仰形態が広く浸透していました。本地垂迹説に基づき、日本の神々は仏教における仏が姿を変えて現れたものだと考えられていました。祇園感神院もその例にもれず、境内には薬師堂や観音堂といった仏教建築が立ち並び、神仏習合の象徴的な存在となっていました。

祇園社の境内図祇園社の境内図

当時の祇園感神院には、薬師如来像や日光月光菩薩像、十二神将像、十一面観音立像、夜叉神明王像など、多くの仏像が安置されていました。京都の歴史に詳しい郷土史家、田中一郎氏(仮名)によると、「祇園感神院は、まさに神仏習合の縮図とも言える場所だった」とのこと。神社でありながら、寺院としての機能も併せ持つ、独特の信仰形態がそこにはありました。

明治維新による変化と「八坂神社」への改称

明治維新という大きな時代の転換期を迎えると、神仏分離令が発布され、神道と仏教は明確に区別されることとなりました。これに伴い、祇園社も「八坂神社」へと改称され、祭神も牛頭天王からスサノオノミコトへと変更されました。境内の仏教建築は取り壊され、現在の八坂神社の姿へと変貌を遂げていきました。

八坂神社の今と昔

八坂神社の変遷は、日本の宗教史を映し出す鏡とも言えます。神仏習合から神仏分離へ、そして現代に至るまでの歴史を辿ることで、日本の文化や信仰の変遷を深く理解することができます。

京都を訪れる際には、ぜひ八坂神社に足を運んでみてください。華やかな景観だけでなく、その背後に隠された歴史の重みを感じることができるでしょう。