日本では依然として学歴フィルターが根強く残る一方、ビジネスの現場では「実際に仕事ができない」と感じる場面も少なくありません。しかし、それでもなお、人々はなぜこれほどまでに学歴に固執してしまうのでしょうか。組織開発の専門家が、企業と労働者が直面するこの学歴社会のジレンマを、能力という観点から深く掘り下げて解説します。
成功のカギは「学歴」ではない、特別な「能力」か?
成功を左右する要因として、しばしば「学歴ではない何か」が挙げられます。例えば、本田宗一郎氏の言葉にある「愛」「協力」「徳」のように、先人たちの教えや、近年話題になった書籍からは「成功のカギ」に関する様々な言説が見て取れます。
「多動力」「1%の努力」「聞く力」「美意識」「リーダーシップ」「エッセンシャル思考」「1分で話せ」など、各界の著名人たちは、自らが持つと自負する特別な能力こそが成功の秘訣であると語り、「学歴ではない何か」の重要性を説きます。彼らは往々にして高学歴であるため複雑な状況ではありますが、「大事なのは学歴ではない。仕事に不可欠な能力を持ち、それを磨き続けることだ」と誇らしげに語るのです。
こうした学歴に関する議論が「正しいのか、デマなのか」という問いに盲目的に進む前に、その言説が意図するものと、その背景に垣間見える人々にとっての「正義」とは何かを考察することが重要です。この議論はまさに、いわゆる「コンピテンシー」と呼ばれる能力研究の系譜に位置づけられると筆者は考えます。
自身の著書『「能力」の生きづらさをほぐす』でも述べたように、能力研究(そしてその代替指標としての学歴論)は教育社会学に大きく貢献してきました。アカデミアだけでなく、人材開発業界が労働社会に深く浸透しているからこそ、これほどまでに能力が信奉される土壌が形成されたと言えるでしょう。包括的な学歴論を検証するためには、能力研究についても俯瞰しておく必要があります。
デビッド・マクレランドが提唱する「コンピテンシー理論」とは
「学歴ではなく、成功者には彼ら独特の共通した行動パターンがある」と、組織心理学の観点から実証した人物がいます。ハーバード大学で組織心理学の教鞭を執っていたデビッド・マクレランドです。彼のコンピテンシー理論の興りとその商業化の波について、筆者の著書を引用しながら簡潔に説明します。
1970年代のアメリカもまた、学歴偏重の傾向がある社会であり、学歴やIQテストによって仕事が決まっていました。しかし、外交を担う国務省が次のような人事問題に直面していたのです。
「学歴やIQテストでしっかりと選抜しているはずなのに、開発途上国に送り込まれた我が国の外交官が短期間で帰国せざるを得ない精神状態になったり、一方で、平然と大活躍したりする。同じ“能力”の指標で選んでいるはずなのに、どうしてこんなにも差が出てしまうのか?」
ビジネスの現場で発揮される多様な能力。学歴と実務能力の関係性について議論する様子。
つまり、学歴やIQテストで選抜しても、シビアな任務を全うできるかを正確には予測できなかったのです。これまで測定されていなかった別の「能力」が、実は仕事の出来・不出来を左右しているのではないか、と考えられ始めたのでした。学歴や知力への懐疑が、仕事の能力を予見するコンピテンシーの機運を高めたと言えるでしょう。名門校出身の高学歴な外交官を選りすぐったにもかかわらず、様々な国際地域の任務に当たらせると、脱落者が続出したのです。「ガリ勉」と一口に言っても、「激務をやり遂げるガリ勉と、そうでないガリ勉とがいる」という現実が浮き彫りになりました。
結論
日本の学歴社会において、学歴が依然として重要な指標であることは事実です。しかし、ビジネスの現場で真に仕事の成果を左右するのは、学歴だけでは測れない多様な「能力」であることが、デビッド・マクレランドのコンピテンシー理論や現代の人材開発の知見から明らかになっています。学歴やIQテストだけでは仕事の成功を完全に予測することはできず、実務で発揮される行動パターンや潜在的な能力こそが、個人のキャリアを、ひいては企業の成功を形作る重要な要素であると言えるでしょう。今後、学歴と能力の関係性を多角的に捉え、真に価値ある人材像を見出すことが、より良い学歴社会の構築に繋がるかもしれません。
参考文献
- 勅使川原真衣『学歴社会は誰のため』(PHP研究所)
- 勅使川原真衣『「能力」の生きづらさをほぐす』