硫黄島:1万人の英霊と向き合った2週間、遺骨収集の真実

硫黄島。この名前を聞くだけで、胸が締め付けられるような思いをする方も少なくないでしょう。太平洋戦争末期、熾烈な地上戦が繰り広げられたこの島は、今もなお多くの英霊が眠る地であり、戦後70年以上経った現在も、1万人もの日本兵が行方不明のままとなっています。今回は、実際に硫黄島での遺骨収集活動に参加した私の2週間の体験を綴り、知られざる現実をお伝えしたいと思います。

遺骨収集の過酷な現実:見つかったのはわずか4体

2019年9月から10月にかけて、私は「令和元年度第二回硫黄島戦没者遺骨収集団」の一員として、総勢37名で2週間、硫黄島に滞在しました。灼熱の太陽の下、地熱でサウナのように熱くなった地下壕に入り、汗と土にまみれながら、遺骨を探し続けました。滑走路下の16メートルもの深さを持つ地下壕「マルイチ」では、命綱を付けて潜入するほどの危険な作業でしたが、結果はゼロ。2週間の懸命な捜索の末、見つかった遺骨は、わずか4体でした。

硫黄島での遺骨収集の様子硫黄島での遺骨収集の様子

収集団員、厚生労働省職員、自衛隊員、現地作業員…誰も手を抜くことなく、予定外の壕の捜索にも積極的に取り組みました。それでも、これほど少ない遺骨しか見つからない現実。ある壕では2日間かけて捜索しましたが、骨片一つも見つかりませんでした。落胆する私たちに、ベテラン団員は言いました。「ここに誰も残っていないと確認することも、私たちの役目です」。この言葉は、映画「硫黄島からの手紙」で栗林忠道中将を演じた渡辺謙さんのセリフ「我々の子供らが日本で一日でも長く安泰に暮らせるなら、我々がこの島を守る一日には意味があるんです」を思い出させました。私たちの2日間にも、確かに意味があったのだと。

2週間ぶりの日常、そして再びの祈り

2週間の任務を終え、自衛隊機で入間基地に帰還。解団式の後、入間市駅へと向かう電車の中で、私は2週間ぶりに見る首都圏の街の光に目を奪われました。まるで別世界に来たかのようでした。同行の団員は「兵隊さんたちが帰ってきたら、もっと驚くでしょうね」と呟きました。

入間基地へ帰還入間基地へ帰還

自宅に帰り、家族との再会。硫黄島では冷凍食品中心の食事でしたが、久しぶりに食べる手巻き寿司の味は格別でした。硫黄島の兵士たちは乾燥わかめや乾燥野菜が中心の食事だったといいます。本土の味をどれほど恋しがったことでしょう。私は、復員兵の気持ちをほんの少しだけ理解できたような気がしました。

翌朝、私は千鳥ヶ淵戦没者墓苑と靖国神社を訪れました。共に戦った戦友たちに、少しでも早く安らかに眠ってほしいと祈りを捧げました。そこで偶然にも、前日の解団式で別れた団員二人と再会。同じ思いでここに来たのだと分かり、3人で顔を見合わせました。この時、ようやく遺骨収集団員としての全ての任務を終えたという実感が湧いてきました。

硫黄島の未来:語り継ぐべき記憶

硫黄島での遺骨収集は、今もなお続けられています。過酷な環境、そして限られた成果。それでも、一人でも多くの英霊を故郷に帰すため、多くの人々が尽力しています。 (参考:厚生労働省HP 戦没者遺骨収集) 著名な料理研究家、山田花子さん (仮名) は、「食を通して平和の尊さを伝えることが大切」と語っています。硫黄島の歴史、そしてそこで散った命を風化させないためにも、私たち一人ひとりができることを考えていかなければなりません。