阪神淡路大震災から30年:教訓を未来へ、防災意識を高めるために

1995年1月17日、未曾有の大災害、阪神淡路大震災が発生しました。あれから30年。最大震度7の揺れが神戸市を中心に近畿地方を襲い、6434名もの尊い命が奪われました。都市部を直撃したこの未曾有の震災は、私たちに多くの教訓を残しました。この記事では、震災の被害状況を振り返り、防災対策の重要性を改めて考えます。

未曾有の揺れ、都市直下型地震の脅威

午前5時46分、淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生。観測史上初の震度7を記録しました。高速道路は倒壊し、ビルや住宅は崩壊、水道・ガス・電気などのライフラインは寸断されました。「体が浮いた」と表現されるほどの激しい揺れは、都市機能を麻痺させ、人々の生活を根底から覆しました。

alt=倒壊した阪神高速道路alt=倒壊した阪神高速道路

多くの犠牲、建物の耐震性の問題

犠牲者の約8割が窒息死や圧死でした。倒壊した家屋や家具の下敷きになったことが主な原因で、特に1981年以前の旧耐震基準の建物に被害が集中しました。高齢者の被害が多かった一方、大学生も多い地域であったため、20代の死亡率も高かったことが明らかになっています。この事実は、建物の耐震性の重要性を改めて私たちに突きつけました。

生活インフラの麻痺、二次災害の発生

阪神高速道路の倒壊は、震災の象徴的な光景となりました。道路網の寸断は、救助活動や支援物資の輸送を困難にし、復旧作業を遅らせました。電気は1週間で復旧したものの、ガスと水道は3ヶ月近くかかり、被災者の生活に深刻な影響を与えました。

通電火災の危険性

震災直後から火災が多発し、約7500棟が焼損しました。木造家屋が密集していたこと、そして消火活動が困難だったことが被害を拡大させました。これらの火災の多くは、地震直後だけでなく、電気が復旧した際に発生する「通電火災」によるものでした。阪神淡路大震災は、通電火災の危険性を広く認識させるきっかけとなりました。

避難生活の課題、物資供給の混乱

ピーク時には約31万6000人が避難生活を送り、体育館や教室は人で溢れかえりました。プライバシーの確保は難しく、慣れない共同生活によるストレスや、衛生環境の悪化による感染症のリスクが高まりました。

支援物資の不足と混乱

支援物資は届き始めたものの、人手不足や保管場所の不足により、必要な物資が被災者に届かないという事態も発生しました。食料や物資の配給をめぐる混乱も発生し、避難生活の困難さをさらに深刻化させました。一方で、住民同士の助け合いが多くの被災者を支えたことも忘れてはなりません。

30年の歳月を経て、防災意識の向上を

阪神淡路大震災は、都市における災害の恐ろしさを改めて示しました。建物の耐震化、家具の固定、非常用持ち出し袋の準備など、日頃からの備えが生死を分けることを、私たちは忘れてはなりません。「防災のプロ」である防災士の資格を持つ田中一郎氏(仮名)は、「震災の記憶を風化させず、防災意識を常に高く持つことが大切」と語ります。過去の教訓を未来へと繋ぎ、一人ひとりが防災意識を高めることで、未来の災害から命を守ることができるのです。