阪神淡路大震災から30年。あの未曾有の災害は、多くの人々の心に深い傷跡を残しました。この記事では、震災で長男の健太郎さん(当時22歳)を亡くした徳島県板野町の稲井稔さん、道子さん夫妻の物語を通して、震災の記憶を風化させないことの大切さを改めて考えます。
息子の遺品と、変わらぬ祈り
稲井夫妻の自宅の居間には、健太郎さんの遺影と共に、彼が愛用していた品々やアルバイト先の給与明細が大切に保管されています。神戸大学医学部に進学し、医師を志していた健太郎さん。震災当日、下宿していた神戸市灘区のアパートで、柱の下敷きになり帰らぬ人となりました。
健太郎さんの遺影と自宅の居間
震災後、がれきの中をかき分け、息子の亡骸を発見した時の衝撃は、想像を絶するものだったでしょう。夫妻は、葬儀までの間、健太郎さんと川の字で寝たといいます。翌朝、健太郎さんの目元から伝う水滴を見て、「最後の涙だったと思いたかった」と道子さんは語ります。
自宅で行われた告別式には、多くの友人たちが参列し、その列は家の前の道まで続きました。健太郎さんの人柄が偲ばれます。
悔恨と、息子への想い
震災前、健太郎さんはアパートを引っ越す予定でした。しかし、諸事情により延期になり、それが運命の分かれ道となってしまいました。「予定通り引っ越していれば…」という思いは、今もなお夫妻の胸を締め付けます。
健太郎さんの給与明細
震災後、健太郎さんがアルバイトをしていたスーパーの上司が、未払いだった給与を届けに訪れました。その際、健太郎さんが両親に迷惑をかけまいと家計をやりくりしていたことを知り、夫妻は息子の優しさと思いやりに改めて胸を打たれたといいます。
巡礼の旅、そして記憶の継承
居間には、発生時刻の「午前5時46分」で止まった時計や、上司が手渡してくれた給与明細などが大切に保管されています。バイク好きだった健太郎さんは、よく旅行に出かけていました。四十九日の法要後、夫妻はお遍路の旅に出ました。週末に車で数百キロを走るなどして、全ての札所を巡り「結願」しました。昨年まで何度も巡礼の旅を続け、出発前には必ず仏壇の前で「一緒に来て道を教えてよ」と語りかけていたといいます。
震災の記憶を風化させないために、そして愛する息子への想いを胸に、稲井夫妻はこれからも祈りを捧げ続けることでしょう。彼らの物語は、私たちに震災の教訓と、命の尊さを改めて教えてくれます。