三菱銀行猟銃立てこもり事件:緊迫の42時間、最初の突入計画はなぜ失敗したのか?

1979年1月26日、大阪で発生した三菱銀行猟銃立てこもり事件は、日本犯罪史に残る凶悪事件として、今もなお人々の記憶に深く刻まれています。犯人の梅川昭美は行内の人質だけでなく、駆けつけた警察官をも殺害するなど、その残虐性は目を覆うばかりでした。事件発生直後から大阪府警は犯人逮捕と人質救出のため、あらゆる手段を講じました。今回は、その緊迫の42時間の中でも、特に最初の突入計画に焦点を当て、その詳細と失敗の理由を紐解いていきます。

犯人の動向を探る、息詰まる攻防

事件発生直後、警察は密室と化した銀行内部の情報収集に全力を注ぎました。シャッターと床のわずかな隙間から集音マイクを差し込み、犯人の動向を探ろうとしました。さらに、シャッターにドリルで穴を開け、内部の様子を窺うという危険な任務も敢行されました。これらの努力により、犯人の様子、人質の配置など、わずかながらも貴重な情報が得られました。当時の捜査資料からも、このシャッターの穴からの偵察がいかに重要な役割を果たしたかが伺えます。

シャッターの隙間から内部の様子をうかがう捜査員シャッターの隙間から内部の様子をうかがう捜査員

狙撃による逮捕:最初の計画

大阪府警は事件発生当初から、犯人狙撃が最善の策だと考えていました。事件発生当日夜、吉田六郎本部長は幹部を集め、1時間半以内に人質を救出し、犯人を逮捕する計画の立案を指示しました。通常、立てこもり事件では持久戦と説得が基本となります。しかし、既に警察官を殺害し、「警官の姿を見たら人質を殺す」と豪語する犯人には、これらの方法は通用しないと判断されました。加えて、犯人は奪った警察官の拳銃も所持しており、その危険性は増すばかりでした。

読売新聞大阪社会部の著書『ドキュメント新聞記者:三菱銀行事件の42時間』によれば、大阪府警は早期から強行突入、そして狙撃による犯人逮捕を視野に入れていたことが分かります。射撃の指導官である松原和彦警部が呼び出され、狙撃の可能性について検討が重ねられました。

突入計画と予期せぬ事態

松原警部は当初、人質の隙を縫って犯人を狙撃できると判断し、6人の狙撃手を選抜、銀行3階で実戦さながらの訓練を実施しました。突入予定時刻は27日午前0時。しかし、シャッターの穴から偵察を続けていた特殊班員からの報告で事態は急変します。犯人が人質の配置を変え、背後にも人質を立たせるようになったのです。

恐怖の42時間。日本犯罪史上、稀に見る残虐な事件の全貌恐怖の42時間。日本犯罪史上、稀に見る残虐な事件の全貌

松原警部は改めてシャッターの穴から内部を確認し、背後の人質に危害を加えずに犯人を狙撃することは不可能だと判断しました。この報告を受け、最初の突入計画は中止を余儀なくされました。

失敗から学ぶ、そして次の作戦へ

最初の突入計画は失敗に終わりましたが、この経験は後の作戦立案に大きな影響を与えました。犯人の凶悪性と狡猾さを改めて認識し、より慎重かつ周到な計画が必要となったのです。そして、この後、大阪府警は更なる困難に直面することになります。