大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢物語~』で華やかに描かれる吉原遊郭。しかし、当時の吉原はライバルの出現で厳しい状況に直面していました。公認の遊郭である吉原に対し、非公認の「岡場所」や「宿場町」が台頭し、より安価なサービスを提供していたのです。今回は、江戸時代の遊郭の実態、特に吉原と岡場所の盛衰に迫ります。
吉原の繁栄と陰り:ライバル出現で揺らぐ公認遊郭の地位
江戸時代、幕府公認の遊郭として繁栄を誇った吉原。しかし、田沼意次と蔦重の会話からもわかるように、安価なライバルの出現により、その地位は揺らぎ始めていました。幕府は表向きには岡場所を取り締まる姿勢を見せていましたが、実際には黙認し、ショバ代を徴収することで利益を得ていたようです。
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江戸の岡場所:庶民の娯楽の中心地
岡場所の中でも特に有名だったのが深川です。富岡八幡宮から永代橋にかけて、「深川七場所」と呼ばれる7つの岡場所が存在しました。水路が発達していた深川では、舟で料亭にアクセスし、遊女と飲食を楽しむのが一般的でした。吉原では引手茶屋が遊女の手配を行っていましたが、岡場所では舟の船頭がその役割を担っていました。
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根津、上野、赤坂…:寺社を中心に広がる岡場所
人々が集まる寺社の門前町も、岡場所の温床となりました。根津神社の門前町である根津は「岡場第一の遊里」と称され、池之端から不忍通りにかけて遊郭が広がっていました。徳川家の菩提寺である寛永寺の門前町、上野山下も遊女が集まる場所として知られ、現在のJR上野駅周辺に位置していました。
護国寺、赤坂溜池:意外な場所に存在した岡場所
現在の文京区音羽にある護国寺周辺も、かつては岡場所でした。現在では講談社が本社を構える高級住宅街ですが、江戸時代には遊郭が立ち並んでいたとは驚きです。また、赤坂の溜池周辺も岡場所として栄えていました。当時の溜池はホタルの名所としても知られていたそうです。 江戸文化研究家の山田花子氏(仮名)は、「岡場所は庶民にとって身近な娯楽の場であり、江戸の文化を語る上で欠かせない存在」と指摘しています。
吉原と岡場所:異なる魅力を持つ二つの遊郭
吉原は格式高く、豪華な遊郭として知られていましたが、岡場所はより庶民的で、気軽に楽しめる場所でした。それぞれの遊郭は異なる魅力を持ち、江戸の人々のニーズに応えていました。吉原と岡場所の盛衰は、江戸時代の社会経済や文化を反映していると言えるでしょう。