バブル景気に乗って海外の有名オーケストラが次々に来日した昭和時代末期。テレビ番組やCMで、クラシックの美しいメロディーが日本人にも身近になった。海外で長く研鑽(けんさん)を積んだオペラ歌手、佐藤しのぶさんもこの時期、活躍の幅を広げる。
昭和62年、オペラ歌手として初めてNHK紅白歌合戦に出場すると、一躍、クラシック界を代表する顔になった。「それだけに、その後も『佐藤しのぶ』であり続けるための努力は並大抵のものではなかったでしょう」。舞台で相手役を務めたこともあるテノール歌手の倉石真(まこと)さん(50)は思いをはせる。
「舞台を降りたしのぶさんは優しい母の顔を持ち、故郷、大阪の串揚げを喜んで食べるおちゃめな人でした」。一方で、多くの観客やテレビの前の視聴者は、しのぶさんをオペラ「椿姫」「トスカ」などのヒロインに重ね合わせる。そのイメージを守るため、「立ち居振る舞いや身につける物にも、自己ブランディングを課しているように見えました」。
強いプロ意識と同時に、ウィーン国立歌劇場など海外の主要な劇場に立つようになったしのぶさんが大切にしたのが、時代や場所を超えた「普遍的な愛や絆」を歌うことだった。平成25年の産経新聞の取材には「18世紀の作品が心を打つのは、普遍的な人の姿を描いているから。先人が残してくれたオペラ作品を次世代に渡していきたい」と熱く語った。
その思いが強く表れたのが、26年に「つう」役で主演した木下順二作、團伊玖磨(だん・いくま)作曲のオペラ「夕鶴」だ。民話「鶴の恩返し」をもとにし、欲望によって大切なものを見失う人間の姿が描かれる。
「人間は取り返しのつかない痛みと後悔から、良心と希望を取り戻すこともできる。『團先生が描いた普遍的な姿を際立たせたい』というしのぶさんの言葉は、私に強いインパクトを残しました」。演出を任された歌舞伎役者の市川右團次(うだんじ)さん(55)はこう振り返る。結果、能舞台のような無駄をそぎ落とした演出を生み出した。「透き通った歌声でいちずに愛を訴える姿は、つうそのものでした」。時代も洋の東西も超えた歌手の早すぎる永眠だった。(石井那納子)
◇
9月29日、61歳で死去。