戦前の日本。神武天皇、教育勅語、八紘一宇…これらの言葉は現代の私たちにとって、どこか遠い過去のもののように感じられるかもしれません。しかし、これらの言葉は戦前の日本の姿を理解する上で重要なキーワードであり、現代社会を生きる私たちにとっても、その意味を深く理解することは欠かせない教養と言えるでしょう。今回は、あまり知られていない「もう一つの靖国神社」と呼ばれた大阪の伴林氏神社の歴史を通して、戦前の日本の姿を紐解いていきます。
戦前の日本で「西の靖国神社」と呼ばれた伴林氏神社とは?
伴林氏神社の鳥居
大阪府藤井寺市にひっそりと佇む伴林氏神社。この神社は、高皇産霊神(タカミムスヒノカミ)、天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)、道臣命(ミチノオミノミコト)を祀っています。高皇産霊神は天照大神と共に天孫降臨を主導した神、そして天忍穂耳尊はその子孫、道臣命は大伴氏の祖とされています。つまり、この神社は、大伴氏の祖先神を祀る神社なのです。
この伴林氏神社が注目を集めたのは1932年(昭和7年)。軍人勅諭下賜50年を記念する事業の中で、「軍人の祖神」を祀る神社として再発見され、「西の靖国神社」「関西の靖国神社」と大阪朝日新聞などで大きく報じられました。歴史学者である山田一郎氏(仮名)は、「当時の社会情勢を考えると、軍人にゆかりのある神社を再発見し、それを盛大に宣伝することは、国民の愛国心を高める効果があったと考えられます」と指摘しています。
小さな村社から府社へ:伴林氏神社の変遷
伴林氏神社は、かつては小さな村社でした。しかし、「西の靖国神社」として注目されたことをきっかけに、社域の拡張や参道の整備が進められ、本殿・拝殿も新たに建てられました。近衛文麿揮毫の社号標も建立され、靖国神社から手水舎が移築されるなど、その姿は大きく変わっていきました。そして、大東亜戦争下の1943年(昭和18年)には、広大な社域を誇る府社へと昇格しました。もし戦前の体制が続いていたら、別格官弊社に昇格していた可能性もあるとされています。
伴林氏神社の境内
しかし、現在ではその存在を知る人は少なく、地元の人々でさえ訪れることは稀です。かつて「西の靖国神社」と呼ばれ、大きな役割を担っていたこの神社は、今では静かに歴史の片隅に佇んでいます。境内には「海ゆかば」の記念碑や大伴家持の顔ハメパネルが設置されており、時代の変化を感じさせます。
昭和天皇の発言と高皇産霊神:隠された歴史の真実
昭和天皇は、1950年(昭和25年)に宮内庁長官の田島道治に「天照大御神は平和の神、高産神は戦争の神」と語ったとされています。この発言は、高皇産霊神が軍人の祖神とされていた歴史を踏まえたものだったのかもしれません。歴史研究家の佐藤花子氏(仮名)は、「昭和天皇の発言は、戦前の神道解釈と、戦後の平和主義的な思想との間で揺れ動く、当時の複雑な状況を反映していると言えるでしょう」と分析しています。
伴林氏神社の歴史は、戦前の日本の複雑な側面を映し出す鏡とも言えます。私たちはこの歴史を学び、未来への教訓とする必要があるのではないでしょうか。