江戸時代、人々に知識や娯楽を提供する出版業界は、大きく二つの勢力に分かれていました。一つは辞書や学術書、地理書などを扱う「書物問屋」、もう一つは浮世絵や娯楽小説などを扱う「地本問屋」です。そして、これらの書籍を人々に貸し出す「貸本屋」が流通を担い、三者一体となって江戸の出版文化を支えていました。この記事では、書物問屋と地本問屋の役割や特徴、そして彼らがどのように江戸時代の出版業界を形成していったのかを探ります。
幕府公認の組織、書物問屋とは?
江戸時代の武鑑
現代の出版社も専門書を扱う出版社と一般書籍を扱う出版社で役割が異なるように、江戸時代も書物問屋と地本問屋はそれぞれ異なる役割を担っていました。書物問屋は、幕府公認の株仲間という組織を形成していました。株仲間とは、同業者による組合のようなもので、幕府に冥加金を納めることで独占的な営業権を得ていました。
京都では、古くから寺社を中心に出版活動が行われており、平安時代、鎌倉時代から続くその流れを汲む形で、民間へと出版事業が移行していきました。江戸で栄えた書物問屋の須原屋茂兵衛もその流れを汲む一人です。須原屋から暖簾分けを受けた市兵衛は、日本初の本格的な西洋解剖学書の翻訳書『解体新書』を出版するなど、江戸を代表する版元へと成長しました。
娯楽を提供する地本問屋
江戸時代の地本問屋
元禄時代(1688年~1704年)になると、京都では「書林十哲」と呼ばれる10の有力な版元が登場し、儒医書や禅書、歌書といった学術書を出版していました。これらの版元は、次第に江戸にも進出を始めます。 一方、地本問屋は娯楽小説や浮世絵などを出版し、人々の娯楽ニーズに応えていました。彼らは、書物問屋のような株仲間には属していませんでした。
出版統制とお触れ
1722年、町奉行の大岡忠相は出版統制のためのお触れを出しました。内容は、「好色本の段階的絶版」「他家の家系への無断改変禁止」「作者名と版元名の明記義務」「徳川家康関連書籍の出版禁止」などでした。しかし、このお触れには「内容を遵守すれば株仲間を認める」という交換条件が含まれていました。つまり、幕府に不利な内容の書籍を自主的に規制することを条件に、書物問屋は株仲間を結成し、営業権を独占することが許されたのです。 出版統制によって表現の自由は制限されましたが、一方で人々の知的好奇心は高まり、新しい情報や娯楽を求める機運が高まりました。この状況は、地本問屋の成長を促す要因となりました。
江戸時代の出版文化を支えた二つの勢力
書物問屋は、学術的な知識の普及に貢献し、地本問屋は、人々の娯楽ニーズを満たす役割を果たしました。両者は異なる役割を担いながらも、江戸時代の出版文化を支える重要な存在でした。 現代の出版業界にも、専門書出版社と一般書籍出版社が存在するように、江戸時代の書物問屋と地本問屋の二元構造は、現代にも通じるものがあります。 江戸時代の出版業界は、厳しい統制下にあっても、人々の知的好奇心と娯楽への欲求に応えるべく、様々な工夫を凝らしながら発展していきました。その歴史を紐解くことで、現代の出版文化の源流を垣間見ることができるのではないでしょうか。