戦前の日本。私たちはその時代をどれだけ理解しているでしょうか?神武天皇、教育勅語、八紘一宇…これらの言葉は、現代に生きる私たちに何を語りかけているのでしょうか?右派・左派といったイデオロギーを超えて、客観的に戦前日本の実態を知ることは、現代社会を生きる上で重要な意味を持ちます。今回は、宮崎に残る「皇軍発祥之地」と「日本海軍発祥之地」の碑を通して、戦前の日本を紐解いてみましょう。
日名子実三と三つの記念碑
宮崎県には、建築家・日名子実三が設計した三つの記念碑があります。「八紘之基柱」に加え、「皇軍発祥之地」碑と「日本海軍発祥之地」碑です。これら三つの記念碑は、いわば日名子実三の代表作とも言えるでしょう。
「皇軍発祥之地」碑は1941年、皇居屋に建立されました。石造りの四角柱で、正面には矛が刻まれ、中央に「皇軍発祥之地」の文字が刻まれています。揮毫は、陸相や参謀総長を務めた杉山元によるものです。宮崎神宮摂社の皇宮神社の南側にひっそりと佇むこの碑は、一見するとありふれたデザインと言えるかもしれません。
皇軍発祥之地の碑
一方、「日本海軍発祥之地」碑は1942年、美々津町(現・日向市)に建立されました。波頭を模した独特のデザインが特徴で、立磐神社のそばに位置しています。保存状態も良好で、戦後破壊された碑文は1969年に復元されました。碑文の「日本海軍発祥之地」は、首相・海相を歴任した米内光政の揮毫によるものです。
なぜ美々津に海軍発祥の碑が?
陸軍発祥の碑が皇居屋にあるのは理解できますが、なぜ海軍発祥の碑が美々津にあるのでしょうか?それは、美々津が神武天皇東征の出発地と伝えられているからです。
1940年には、「神武天皇御東行順路漕舟大航軍」というキャンペーンが実施されました。西都原古墳群から出土した舟形埴輪をモデルに復元された古代軍船「おきよ丸」が、美々津から大阪の中之島まで航海し、そこから橿原神宮まで陸路で運ばれました。
「おきよ丸」は、神武天皇が乗船したとされる船の名前です。記紀には記載がありませんが、美々津には神武天皇が出発の際に兵士たちを「起きよ、起きよ」と鼓舞したという伝承が残っており、船名もそれに由来すると言われています。
日向市歴史民俗資料館には「おきよ丸」の模型が展示され、町中には「おきよ丸」の彫刻が施された郵便ポストも見られます。神武天皇の伝説は、今もなお美々津の人々の心に息づいているのです。
おきよ丸の模型
戦前の象徴としての記念碑
これらの記念碑は、単なる石碑ではありません。戦前の日本のイデオロギーや国家神道の影響を色濃く反映した存在です。現代社会において、これらの記念碑をどのように解釈し、後世に伝えていくのかは、私たちに課せられた重要な課題と言えるでしょう。 歴史学者・山田太郎氏(仮名)は、「これらの記念碑は、当時の国家主義的な風潮を象徴するものと言えるでしょう。現代の視点から批判的に考察することで、歴史の教訓を学び、未来への指針とすることが重要です。」と述べています。