地下鉄サリン事件から30年。未曽有のテロ事件を引き起こしたオウム真理教。事件前から彼らの異様さに気づき、記録し続けてきた写真家、宮嶋茂樹氏が当時の記憶を紐解きます。麻原彰晃との出会い、そして事件前の不穏な空気とは一体どのようなものだったのか。当時の貴重な写真と共に振り返ります。
浜田山駅前に現れた奇妙な集団
私がオウム真理教の異様さに初めて気づいたのは、36年前、井の頭線浜田山駅周辺での出来事でした。青い象の被り物をした若者たちが、「麻原彰晃パフォーマンスやってます」と書かれたプラカードを掲げ、奇妙な音楽に合わせて踊り始めたのです。その音楽は「麻原彰晃マーチ」と呼ばれ、耳障りな音で街中に響き渡っていました。彼らの踊りは、見ているこちらが恥ずかしくなるような異様なものでした。
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私は当時から彼らの姿を写真に収めていました。麻原彰晃のポスターが街中に貼られ、中野サンプラザなどで「麻原彰晃アストラル・コンサート」と銘打った音楽会が開催されるようになりました。そのクオリティは、小学生の学芸会レベルでした。
この奇妙な集団の正体、そして彼らのリーダーである麻原彰晃とは何者なのか。当初は、単なるキワモノとして取材対象と考えていました。アストラル・コンサートにも何度か足を運びましたが、麻原本人には会うことができませんでした。
富士宮の総本部への潜入取材と不穏な出会い
彼らの正体を探るべく、静岡県富士宮市にあったオウム真理教の総本部へ単身、車で取材に向かいました。週刊文春のグラビア班としての仕事ではなく、純粋な興味と、自宅周辺に集まり始めた信者たちの不穏な雰囲気を感じたからです。
総本部を見渡せるお好み焼き屋の駐車場で張り込みを始めて数日後、総本部の近くにタクシーが停車し、人だかりができました。何かが起こると直感し、カメラを持って近づきました。
人だかりの中にいた一人に名刺を渡すと、彼は横浜弁護士会の弁護士だと名乗りました。なぜ横浜の弁護士が富士宮にいるのか、その目的を尋ねましたが、彼は言葉を濁すばかりでした。そして、タクシーでどこかへ去っていきました。
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狐につままれたような気持ちで、そのまま暗くなるまで張り込みを続けました。夕方、編集部に連絡し、何か情報がないか尋ねると、デスクの態度が急変しました。彼はすぐにその場を離れ、東京へ戻るように指示しました。その声色には、明らかに動揺が感じられました。
オウム真理教への取材は、こうして不穏な幕開けとなったのです。後に起こる地下鉄サリン事件へと繋がる、彼らの狂気の片鱗を、私はこの時すでに感じ取っていたのかもしれません。