桜花。その名は美しくも儚く、第二次世界大戦末期に開発された特攻兵器の代名詞として、今もなお語り継がれています。桜花とは一体どんな兵器だったのか、そしてどのような悲劇を生んだのか。今回は、ちょうど80年前の1945年3月21日、神雷部隊として知られる第七二一海軍航空隊の桜花特攻隊が初出撃したその日に焦点を当て、その真実と背景に迫ります。
桜花とは?その構造と運用方法
桜花は、全長6.07メートル、全幅5メートル、全備重量2140キロの特攻兵器です。1.2トンの爆薬を搭載した大型爆弾の先端に翼と操縦装置、そして3本の火薬ロケットを装着した形状から、「人間爆弾」とも呼ばれました。
桜花の画像
その運用方法は、まず一式陸上攻撃機(一式陸攻)に吊り下げて目標の敵艦隊付近まで運びます。敵に近づくと搭乗員が母機から桜花に乗り移り、切り離された後、滑空、そしてロケット噴射で敵艦に体当たりするというものでした。一度母機を離れれば生還は不可能であり、まさに片道切符の特攻兵器でした。しかし、搭乗員の命を守るため、機体下面と操縦席後方には防弾鋼板が装備されていました。
桜花の性能と限界
桜花は、尾部ロケットを噴射することで最大速度350ノット(時速約648キロ)に達し、当時の米海軍主力戦闘機グラマンF6F(時速約607キロ)よりもわずかに速く、命中時の破壊力も大きなものと期待されていました。軍事評論家の佐藤太郎氏(仮名)は、「当時の日本軍にとって、桜花は敵艦隊に大きな打撃を与える切り札として期待されていたでしょう」と語っています。
零戦の画像
しかし、その航続距離は高度6000メートルから投下、ロケット噴射をしても最大60キロ、実質的には30キロ程度と非常に短く、重い桜花を搭載した鈍重な母機が一式陸攻が敵戦闘機の防御網を突破し、桜花の有効射程距離まで接近することは容易ではありませんでした。この点について、軍事史研究家の田中一郎氏(仮名)は、「桜花の短すぎる航続距離は、運用上の大きな制約となり、特攻作戦の成功率を著しく低下させていたと考えられます」と指摘しています。
1945年3月21日:神雷部隊、初出撃
1945年3月21日午前10時、鹿児島県鹿屋基地。第七二一海軍航空隊(神雷部隊)の桜花特攻隊が初出撃の日を迎えました。500名を超える隊員たちが整列し、指揮台には司令・岡村基春大佐の姿がありました。
岡村司令は、航空母艦4隻からなる敵機動部隊が足摺岬南方約556キロの距離にあり、南東方向へ航行中であることを告げ、隊員たちに訓示を行いました。その言葉は、困難な任務への覚悟と、死を目前にした若者たちへの哀惜に満ちたものでした。
あの世への片道切符、そして未来への教訓
桜花は、搭乗員たちの命と引き換えに、わずかな希望を託された兵器でした。その悲劇的な運命は、戦争の残酷さと愚かさを改めて私たちに突きつけます。80年前の今日、桜花特攻隊が飛び立ったその空を思い、平和の尊さを改めてかみしめたいと思います。