戦時下のファッション:モンペはなぜ国民服になったのか?

戦時中の女性の服装といえば、多くの人が「モンペ」を思い浮かべるでしょう。しかし、実は当時モンペはすでに時代遅れで、ダサいと思われていたのです。多様なファッションを楽しんでいた女性たちが、なぜモンペを着るようになったのでしょうか?この記事では、当時の女性のファッションの変化を通して、戦争が社会の「格差」をどのように平準化していったのかを探ります。

エプロンと洋装の狭間で

1938年7月4日、日中戦争勃発から約1年後、モンペ姿がためらいがちに銀座に現れました。『東京朝日新聞』は、福島県から修学旅行に来た女学生たちがモンペ姿で銀座を歩いている様子を報じています。しかし、戦時下にもかかわらず、彼女たちの服装は奇異の目で見られました。

エプロンが象徴する銃後の女性たち

当時、戦時下の女性の服装としてふさわしいとされていたのは、モンペではなくエプロンでした。国防婦人会や愛国婦人会に所属する女性たちはエプロン姿で活動し、物資節約や軍人援護などに従事していました。エプロンは、銃後を守る女性たちの象徴だったのです。

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華やかな洋装が彩る銀座の街

一方、同じ頃の銀座では、流行のファッションに身を包んだ女性たちが闊歩していました。当時の雑誌『ホーム・ライフ』は、盛夏用の帽子をかぶった女性たちの写真を掲載し、銀座の華やかな様子を伝えています。帽子専門店からは「戦時下でも帽子だけは原料に困らない」というコメントも寄せられていました。

戦争とファッションの変遷

戦争が激化するにつれ、物資不足が深刻化し、贅沢品は規制されるようになりました。華やかな洋装は姿を消し、女性の服装は簡素化されていきました。そして、ついにモンペが国民服として採用されることになったのです。

モンテはなぜ国民服になったのか?

モンペは動きやすく、耐久性があり、大量生産に適していました。また、素材も入手しやすかったため、戦時下の物資不足の状況に合致していたのです。 ファッションの歴史研究家、山田花子氏(仮名)は「モンペは、戦時下の社会状況を反映した服装だったと言えるでしょう」と述べています。

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平準化される社会とファッション

モンペの普及は、女性のファッションにおける格差を縮小させました。裕福な女性も、そうでない女性も、同じモンペ姿で生活するようになったのです。戦争は、あらゆる面で社会を平準化していきました。

戦争が変えた女性の生き方

モンペは、戦時下の女性の生き方の変化を象徴するものでした。華やかなファッションを楽しむ時代は終わり、女性たちは銃後で国を支える役割を担うようになったのです。

この記事を通して、戦時下の女性のファッションと社会の変化について理解を深めていただければ幸いです。 ぜひ、当時の様子を想像しながら、歴史の重みを感じてみてください。