矢田稚子氏:電話交換手から内閣総理大臣補佐官へ、女性の選択肢を広げたパイオニア

この記事では、電話交換手から国会議員、そして内閣総理大臣補佐官という異色の経歴を持つ矢田稚子氏の挑戦と、日本の男女格差改善への貢献についてご紹介します。矢田氏の揺るぎない信念と行動力あふれるストーリーは、現代社会を生きる私たちに多くの示唆を与えてくれます。

貧困と逆境を乗り越えて

矢田氏は、1984年、男女雇用機会均等法施行前夜に松下電器産業(現パナソニックホールディングス)に電話交換手として入社しました。当時、「女性は補助職」という考え方が根強く残る中、矢田氏は「自分の食い扶持は自分で稼ぐ」という強い信念を持ち、両親の病気、妹弟の養育という厳しい環境を乗り越えてきました。高校進学さえ危ぶまれる状況でしたが、恩師の励ましもあり、高校卒業後、電話交換手として働き始めます。

alt 矢田稚子氏が勤めていた頃の松下電器産業のオフィスをイメージした写真alt 矢田稚子氏が勤めていた頃の松下電器産業のオフィスをイメージした写真

初任給は手取り8万7000円。少しでも生活を楽にするため、ワープロ検定、書道検定、秘書検定など、様々な資格取得に励みました。持ち前の努力と向上心で、人事部への異動という大きな転機をつかみます。

女性のキャリアアップを推進

人事部では、男女格差を目の当たりにし、現状を変えるべく行動を開始します。当時、社員は6分類の仕事の知見を問う試験を年に1回、最大3科目まで受けることができましたが、女性社員は受験を推奨されない風潮がありました。矢田氏は果敢に挑戦し、3科目全てに合格。このことがきっかけとなり、女性社員の受験を促す社内風土が形成されていきました。

しかし、中には「余計なことをしないで」と反発する女性社員もいたそうです。矢田氏は周囲の批判や偏見に屈することなく、自らの信念を貫き通しました。「挑戦したい、働き続けたい」と願う女性たちの選択肢を広げるため、矢田氏は「女性社員能力開発室」の設立を提案し、実現。女性社員の職域拡大、昇進の機会均等など、様々な改革に取り組みました。

労働組合、そして政界へ

矢田氏の活躍は社内にとどまらず、労働組合の本部役員にも抜擢されます。組合員の声に耳を傾け、経営者と交渉を重ね、民間初の不妊治療休暇や子どもの予防接種・授業参観のための休暇制度など、数々の革新的な制度を導入しました。その後、国会議員、そして内閣総理大臣補佐官へと、活躍の場を広げていきます。

alt 矢田稚子氏が国会議事堂で働く様子をイメージした写真alt 矢田稚子氏が国会議事堂で働く様子をイメージした写真

矢田氏は、自らの経験を活かし、日本の男女格差是正に向けて尽力しています。彼女の挑戦は、女性が社会で活躍するための道を切り開き、多くの女性に勇気を与えています。

未来へのメッセージ

矢田稚子氏の歩みは、まさに「女性の選択肢を広げたパイオニア」と言えるでしょう。彼女の揺るぎない信念と行動力は、私たちに多くの示唆を与えてくれます。困難な状況に直面しても、諦めずに挑戦し続けることの大切さを、矢田氏のストーリーは教えてくれます。