戦前の象徴「三種の神器」:昭和天皇の意外な執着と平和への道

戦前の日本を理解する上で、神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇といった言葉は避けて通れません。しかし、これらの言葉の真の意味、そして当時の日本人の考え方を知る人はどれほどいるでしょうか?右派は「美しい国」と称賛し、左派は「暗黒の時代」と批判する、この複雑な時代を紐解くことは、現代の私たちにとって重要な課題と言えるでしょう。今回は、歴史研究者である辻田真佐憲氏の著書『「戦前」の正体』を参考に、戦前の日本、特に昭和天皇と三種の神器の関係性について深く掘り下げていきます。

戦局悪化と昭和天皇の焦燥

戦意高揚キャンペーンも虚しく、日本はアメリカとの戦いで劣勢を強いられていました。サイパン、フィリピンと次々に失い、1945年には本土空襲が激化、沖縄での地上戦も始まりました。本土決戦が目前に迫る中、それまで積極的な作戦を指示していた昭和天皇は、意外なことに「三種の神器」の安全を案じるようになっていたのです。

三種の神器とは?

三種の神器とは、八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣(天叢雲剣)のこと。『古事記』や『日本書紀』によると、天照大神がニニギノミコトに天孫降臨の際に授けたとされています。現在、八咫鏡は伊勢神宮内宮に、草薙剣は熱田神宮に安置され、皇居にはそれぞれの形代(レプリカ)と八尺瓊勾玉が保管されています。

八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣(イメージ)八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣(イメージ)

実は、『古事記』や『日本書紀』には、三種の神器が皇位の象徴とは明記されていません。また、歴史の中で神器が失われたり、作り替えられたりしたこともありました。例えば、1185年の壇ノ浦の戦いでは、草薙剣が海に沈んだとされています。「三種の神器」という言葉が初めて登場するのは、この壇ノ浦の戦いを描いた『平家物語』です。

南北朝時代と三種の神器

三種の神器が皇位継承の重要な象徴となったのは南北朝時代です。北畠親房の『神皇正統記』では、神器を所持する者が正統な天皇であると主張されました。実際に、南北朝が統一された際には、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に神器が譲渡されています。

明治維新後、神武天皇による建国を掲げながらも、三種の神器に対する考え方は南北朝時代のものが継承されました。皇室典範には「祖宗の神器」とその継承が明記され、天皇が宿泊を伴う外出の際には、草薙剣の形代と八尺瓊勾玉が必ず携行されました。これは「剣璽動座」と呼ばれています。

昭和天皇と三種の神器の運命

昭和天皇は、この三種の神器の持つ力を強く信じていたようです。1945年6月、沖縄戦が終結し本土決戦が現実味を帯びると、昭和天皇は神器の安全を深く憂慮するようになりました。

7月25日、内大臣の木戸幸一に、以下のように語っています。「軍は本土決戦で戦況を好転させると言っているが、これまでの状況から見て信じがたい。もし作戦が失敗すれば、パラシュート部隊が降下してきて、大本営が捕虜になる可能性もある。そこで真剣に考えなければならないのは、三種の神器のことだ」。

「ここに真剣に考えざるべからざるは三種の神器の護持にして、これを全うし得ざらんか、皇統二千六百有余年の象徴を失うこととなり、結局、皇室も国体も護持し得ざることとなるべし。これを考え、而してこれが護持の極めて困難なることに想到するとき、難を凌んで和を講ずるは極めて緊急なる要務と信ず。」(『木戸幸一日記』下巻)

驚くべきことに、昭和天皇は国民の命よりも三種の神器の保全を優先し、講和の必要性を訴えていたのです。

7月29日に伊勢神宮のある宇治山田市が空襲されると、昭和天皇はさらに悲観的になり、具体的な避難計画まで木戸に語っています。「先日、内大臣の言った伊勢神宮のことは実に重大なことと思い、ずっと考えていたが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に移して守るのが一番良いと思う。(中略)万一の場合は自分が守り、運命を共にするしかないと思う。」(前掲書)

昭和天皇(イメージ)昭和天皇(イメージ)

三種の神器と運命を共にする。記紀神話ではそれほど重要視されていないにも関わらず、神道の最高祭祀者である天皇自身が、その存在を深く信じていたのです。 戦前の日本人の精神構造、そして平和への道のりを考える上で、昭和天皇と三種の神器の関係性は、非常に興味深い視点を与えてくれます。 戦前の日本社会、そして現代社会における「象徴」の持つ意味について、改めて考えてみる必要があるのではないでしょうか。