【インタビュー】開館10周年、仁川官洞ギャラリーの戸田郁子館長
1月に開館10周年を迎えた仁川官洞ギャラリーの館長は、日本人の戸田郁子さんだ。
学習院大学文学部史学科の2年生だった1979年に、初めて学生研修プログラムで韓国を訪れたとき、戸田さんは強いショックを受けた。戸田さんが英雄としてあがめていた吉田松陰や伊藤博文などの明治維新の主役たちが、多くの韓国人にとっては「悪人」だったためだ。
大学卒業後の1985年に高麗大学史学科に入学し、東アジア近代史の勉強をあらたに始めた戸田さんは、1988年のソウル五輪後に訪れた社会主義中国で、再びショックを受けた。抗日独立運動を行った朝鮮人がスパイとして捕まって悲惨な最期を迎えたことや、社会主義中国で正当な評価を受けられずみじめに生きている現実を、遅まきながら知ることになったためだ。戸田さんはこの体験から、「同じ歴史でも解釈は様々」であるため、歴史家はただひたすら真実だけを話さなければならないという認識を、さらに確固たるものにした。
「朝鮮族の独立活動家が民族主義者という理由で中国では正当に扱われていないのです。民族主義者の金佐鎮(キム・ジャジン)将軍が率いた青山里の戦いについては、韓国と日本、中国で解釈が異なります。1930年代の中国における(親日反共組織である)民生団の団員と誤解され、無念の死を遂げた朝鮮人も多いのです」
1991年に結婚した韓国人の夫(写真作家のリュ・ウンギュさん)と中国滞留中に「名もなく死んでいった歴史の英雄が多い」ことに気づいた戸田さんは、2011年に日本で『中国朝鮮族を生きる:旧満洲の記憶』(岩波書店)を出版し、その後も「名もなき朝鮮族の英雄」を中心にした小説を書こうと資料を集めている。
ギャラリー開館10周年を迎え、5月5日まで「グラバーアルバムの中の開港期の朝鮮族」の展示をしている戸田さんに7日、ギャラリーで話を聞いた。戸田夫妻は、この展示の作品について詳細に解説した著書『グラバーアルバムの中の開港期朝鮮』(土香刊、未邦訳)も出した。
展示作品は、長崎歴史文化博物館が所蔵している倉場富三郎(1870~1945)の写真アルバム8冊のなかから、開港期朝鮮の様子を写した写真だけを選んだ。長崎に滞在した英国商人のトーマス・グラバー(1838~1911)と日本人女性の間で生まれた倉場富三郎は、同じく母親が日本人である異母妹のハナ・グラバー・ベネット(1876~1938)が英国人の夫と一緒に住んでいた仁川を1917年に訪れ、朝鮮の風景を撮影して、写真も収集した。長崎のホーム・リンガー商会の仁川支店長として赴任した夫のベネットとともに1897年に仁川に来たハナは、死ぬまで朝鮮で過ごし、死後も仁川の地に埋葬された。ベネットは第1次世界大戦中の1915年に英国領事代理の発令を受け、ハナ一家は20年以上、仁川港を見下ろす「海望台(ヘマンデ)」の丘の上にある英国領事館で過ごした。
「ハナの父親のグラバーは、日本において非常に重要な人物です。明治維新を起こした西洋人です。明治維新前に対立していた日本の諸藩に軍艦などの西洋の武器を売りました。1876年に朝鮮に現れた軍艦の雲揚号も、彼が売った船です。産業化には燃料が重要だと考えて長崎で炭鉱を開発し、かなりの富を蓄積しました」
ハナの兄の倉場富三郎の人生の後半は順調ではなかった。日本の中国大陸侵略によって日英関係が破綻すると、英国のスパイと誤解されて苦難に直面し、1945年には長崎に投下された原爆による被害も受けた。倉場富三郎は敗戦の数日後に自殺した。「倉場富三郎の記録によると、1937年に日中戦争が始まると、丘の上の邸宅から軍艦を造る三菱造船所を見下ろせるという理由で、強制的に引っ越しせざるをえなくなり、第2次世界大戦中は『要注意人物』に指定され、憲兵隊の執拗な監視を受けたという話が出てきます」
今回の展示は、戸田さんのハナに対する関心が触媒の役割を果たした。2013年に仁川に引っ越してきた戸田さんは、仁川で生きて死んだハナという人物がいることを知って気になり、長崎のトーマス・グラバーを専門とする研究者である長崎総合科学大学のブライアン・バークガフニ名誉教授と連絡が取れたことで、今回の展示につながった。
展示で注目すべき作品は何かと尋ねると、戸田さんはハナ夫妻とベネットの妹とみられる女性が牡牛に乗って撮った写真を挙げた。「開港期朝鮮の現実がそのまま感じられる気がします。農場や果樹園とみられる場所で、西洋人が写真の演出のために牛などに乗った後、カメラをみて余裕があるかのように笑っています。朝鮮人たちは、これがどのような状況なのかよく理解できず、困惑しています。視線もみなバラバラです」
インタビューに同席した夫のリュ・ウンギュさんは「大韓帝国の軍首脳部とみられる人たちを撮った写真や、大きな女性用の装飾を身につけた若い朝鮮の女性たち、そしてタバコを手に持つ朝鮮の女性たちを撮った写真も、史料的価値がありそうです」と付け加えた。
韓国を訪問して異なる歴史認識に衝撃
高麗大学に入学して東アジア近代史を勉強
中国で朝鮮人独立活動家の取材も
日本人を対象に開港期仁川の探訪を実施
日本軍「慰安婦」について質問した若い学生に
「慰安婦の女性に会って手を握ってみなさい」
10周年を迎え「グラバーアルバムの写真」
個人的に愛着がある写真は何かという質問に、戸田さんは倉場のアルバムに同じ写真が3枚もあるとして、船で犬と朝鮮人を撮った写真を示した。「倉場が妹のハナに送った手紙を読むと、長崎にいる犬をいつ連れていくのかという内容が出てきます。この手紙を受け取り、ハナの夫が長崎から仁川に犬を連れてくる途中に撮ったようです。ハナの家族の犬に対する愛情を示す写真です。当時の仁川地域のマスコミ報道を調べてみると、英国領事館を見ようとして丘の上を登った朝鮮の子どもが、突然犬に吠えられて転び、大けがをしたという内容があります。まさにその犬ではないかと思います」
戸田さんは10年以上、日本の朝日新聞の日曜版で、韓国のベストセラーを扱うコラムを連載している。イ・ヒョンセの漫画『弓』やキム・フンの小説『黒山』、チャン・ソクの詩を日本語に訳した翻訳家でもある。「『弓』は親日派(植民地時代の対日協力者)を扱っていて、日本人が一度読んでみるのがいいという気がしたので、翻訳を志願しました。キム・フンさんは私がとても好きな作家で、コラムで『黒山』を紹介した後、日本語に翻訳もしました」
戸田さんは仁川に移住後、日本人を対象に開港期の仁川の歴史探訪を行っている。最も人気がある探訪地は「人の痕跡があるところ」とのことだ。「日本人が建てた朝鮮初の洋式ホテルである大仏ホテル、当時の日本の三大富豪だった力武が設立した精米所の場所、仁川に定着した華僑の歴史が分かるチャイナタウンのジャージャー麺博物館などが、多く訪れるところです」
戸田さんが日本を離れて韓国と中国で暮らすようになってから40年がたった。どうすれば韓国と中国と日本は良き隣人になれるのだろうか。戸田さんの答えは簡潔だった。「まずは歴史を知らなければなりません。私が歴史探訪をするのもそのためです。3つの国にはそれぞれの歴史観があり、歴史を違った目でみるのは当然です。ですが、事実を歪曲してはいけません。ありのままに見なければなりません」
戸田さんは歴史探訪のときの話を聞かせてくれた。「ある若い学生が、日本は朝鮮に鉄道や工場、学校を建て、未開な朝鮮人に教育もさせてあげたのに、なぜ韓国人は日帝を非難するのか分からないと言いました。その話に私が『当時、仁川にあった小学校には生徒が700人いたのに、朝鮮人は3人しかいなかった。日本人が自分たちのために施設を作り、戦争で負けた後、やむを得ずそのまま残して去っていった。それが朝鮮人のためのものと言えるでしょうか』と答えました。この話を聞いた学生は、まったく知らなかった事実だと言っていました」
日本軍「慰安婦」についての質問を受けたときのことも語った。「その質問をした若い学生は、実は1979年に韓国に始めて来た私でした。当時の私がしたのと同じ質問をしたのです。私もそのときは何も知らなかったので、恥ずかしさを感じて勉強しようと決意しました。質問を受けて、その学生にまずは知るべきだと言いました。今生きている(慰安婦被害者の)女性たちに会い、まずは手を握ってみるよう言いました。その後、資料を探して勉強するよう伝えました。知るためには、生きている人たちに会って感情を感じなければなりません。その人たちの手を握れば、はたして日本帝国主義が正しいと考える人がいるでしょうか」
インタビューの最後に、1979年からこれまでの間に韓国と韓国人について何か考えが変わったかと尋ねると、戸田さんは「今は韓国、中国、日本というように分けて考えていない」として、こう付け加えた。「今は人を、話が通じるか通じないかで見ます。歴史の意識がある人とは通じ合えます」
カン・ソンマン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )