【内務省】知られざる巨大官庁の真実:警察、総務、厚生労働…すべてを掌握した組織とは?

日本の近代化を語る上で欠かせない存在でありながら、現代ではその全貌を知る人が少ない「内務省」。警察庁、総務省、国土交通省、厚生労働省、さらには都道府県知事、消防庁といった、現在の行政機関が担う多岐にわたる役割を、戦前の日本ではこの一つの巨大官庁がすべて掌握していました。一体、内務省とはどのような組織だったのでしょうか?その知られざる実態に迫ります。

内務省の誕生と驚きの規模拡大

内務省は、政治と行政の橋渡し役として、明治政府において極めて重要な役割を担っていました。1885年の内閣制度発足以前、太政官政府における内務卿には、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、松方正義、山田顕義、山県有朋といった、後の首相経験者を含む錚々たる顔ぶれが名を連ねています。このことからも、当時の内務省の高い政治的地位がうかがえます。

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内務省の創設者である大久保利通の後は、伊藤博文がその重責を担いました。大久保暗殺後の政治的混乱が懸念されましたが、伊藤は近代化路線を継承し、井上馨を工部卿に、大隈重信を大蔵卿に据えることで、権力の均衡を保ち、政局の安定に貢献しました。

伊藤は、大久保が台湾出兵の戦後処理で清国に渡航した際にも内務卿を務めており、その手腕は高く評価されていました。彼の在任中、内務省は地方行政、警察行政、勧業行政に加え、図書局や博物局といった文化行政までをも傘下に収め、1880年末には実に16局という巨大組織へと成長を遂げました。地方行政から文化事業まで、多様な分野を統括する、まさに「省庁の中の省庁」と言える存在でした。

伊藤博文と内務省:知られざる関係性

内務省の歴史において、創設期に尽力した伊藤博文の存在感は意外にも薄いと言われています。『内務省史』に収録されている有力大臣の小伝にも、彼の名前は見当たりません。その理由の一つとして、内閣参議と各省卿の分離により、伊藤の内務卿としての任期が2年弱と短かったことが挙げられます。しかし、実際には内務省担当の参議として、省内外で精力的に活動していました。

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後任の松方正義は財政家としてのイメージが強いですが、大久保利通に見出され民部省に登用された人物であり、大隈重信と対立したことから、伊藤博文によって大蔵省から内務卿に抜擢されました。内務省の草創期は、大久保利通、そして伊藤博文という二人の巨頭によって築き上げられたと言えるでしょう。内務省の歴史を紐解くことで、近代日本の発展を支えたキーパーソンたちの活躍、そして複雑な権力構造が見えてきます。現代の行政組織の礎を築いた内務省。その知られざる歴史を探求することは、日本の未来を考える上でも重要な意味を持つのではないでしょうか。