今から80年前、第2次世界大戦が日本の敗戦で終わったばかりの朝鮮半島。6万人もの日本人難民の命を救い「引き揚げの神様」と呼ばれた男がいた。その名は、松村義士男(ぎしお)。北緯38度線の「北側」に封じ込められた同胞たちが大量死する惨状を見過ごせず、アンダーグラウンドでの帰還工作に身を賭した。
同志・磯谷季次(いそがやすえじ)と共に起ち上がり、かつて培ったコネクションをフル活用して驚天動地の集団脱出工作に奔走する松村は、とある光景を目撃して激高する……。
※本記事は、城内康伸氏による歴史ノンフィクション『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部を抜粋・再編集して紹介する。(全4回の2回目/最初から読む)
避難民で溢れ、食料不足に陥った街
興南(フンナム)は、終戦まで世界規模の化学コンビナートの街だった。
朝鮮総督府による「人口調査結果報告其の一」によると、興南に住んでいた日本人の数は1944年5月時点で2万9214人。そこへソ連軍の侵攻により咸鏡北道(ハムギョンプクド、道は県に相当)を離れた避難民約9800人が翌年10月末までに、着の身着のままで集結した。
食料の配給は当時、日本人に対してだけでなく、朝鮮人にさえ滞りがちだった。
終戦まで日本窒素の興南工場に勤務していた鎌田正二が1947年に出版した『北鮮日本人苦難史』(以下、『苦難史』)によると、1945年11月中旬から、従来から住んでいた日本人に対する配給の一部は、ソ連軍の侵攻によりこの街に流入した1万人近い避難民にも回されるようになった。だが、絶対量が不足しているため、十分な量には程遠かった。例えば、12月の配給は白米が1人当たり1日平均8勺、雑穀6.6勺にとどまった。
戦前に日本窒素肥料の興南工場で働いていた日本人労働者は、従来の社宅を追われた。興南工場は1945年8月26日、朝鮮側に接収され、「興南地区人民工場」と改称した。終戦まで近代的な社宅に住んでいた元日本人従業員は、粗末な朝鮮人用の社宅に移転を強いられ、反対に朝鮮人の労働者は日本人の住んでいた社宅に移り住んだ。