「まるで豚のエサ」粗末な弁当を隠しながら食べていた日本人労働者を見て、激高した男が取った驚愕の行動 #戦争の記憶


【写真を見る】地獄のような朝鮮半島で「日本人6万人」の命を救った「男」の同志〈実際の写真〉

※本記事は、城内康伸氏による歴史ノンフィクション『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部を抜粋・再編集して紹介する。(全4回の2回目/最初から読む)

避難民で溢れ、食料不足に陥った街

 朝鮮総督府による「人口調査結果報告其の一」によると、興南に住んでいた日本人の数は1944年5月時点で2万9214人。そこへソ連軍の侵攻により咸鏡北道(ハムギョンプクド、道は県に相当)を離れた避難民約9800人が翌年10月末までに、着の身着のままで集結した。

 食料の配給は当時、日本人に対してだけでなく、朝鮮人にさえ滞りがちだった。
 
 終戦まで日本窒素の興南工場に勤務していた鎌田正二が1947年に出版した『北鮮日本人苦難史』(以下、『苦難史』)によると、1945年11月中旬から、従来から住んでいた日本人に対する配給の一部は、ソ連軍の侵攻によりこの街に流入した1万人近い避難民にも回されるようになった。だが、絶対量が不足しているため、十分な量には程遠かった。例えば、12月の配給は白米が1人当たり1日平均8勺、雑穀6.6勺にとどまった。

 戦前に日本窒素肥料の興南工場で働いていた日本人労働者は、従来の社宅を追われた。興南工場は1945年8月26日、朝鮮側に接収され、「興南地区人民工場」と改称した。終戦まで近代的な社宅に住んでいた元日本人従業員は、粗末な朝鮮人用の社宅に移転を強いられ、反対に朝鮮人の労働者は日本人の住んでいた社宅に移り住んだ。



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