〈斬首役人が白刃を抜き、左内の背後へ廻って、/「よろしいか」/と声をかけた。すると左内が突然、/「しばらく待て-」/と制した。/そして、ああ…じつに左内は、双手で面を蔽(おお)いながら流泪(るるい)滂沱(ぼうだ)として泣いたのである〉
山本周五郎が描いた「左内死す」の瞬間
国民作家、山本周五郎が昭和10(1935)年に発表した『橋本左内』の一節である。ときは安政6(1859)年10月7日(旧暦、現在の11月1日)、場所は江戸・伝馬町牢屋敷の刑場。「安政の大獄」に巻き込まれ、評定所で死刑を言い渡された数えで26歳の越前福井藩士、橋本左内が絶命する直前の描写である。
この短編評伝で周五郎は次に「左内は死を悲しんで泣いたか?」と読者に問いかけたあと、即座に「いや!」と断言し、以下のように続けている。
〈そのとき胸底に衝動して渠(かれ=彼)を泣かしめたのは国運の暗澹(あんたん)たる前途である。虎狼国の四辺を脅し、皇国の安危この一期にある秋(とき)、幕府は暴政を逞(たくま)しゅうして多くの士人傑人を禁獄し、違勅の不敬を犯して耻(は)じず、人心まさにきわまり、内外の不平一時に爆発せんずありの動乱さまではないか、かかるとき-ささいの冤(えん)によって断頭の座につく左内の心事こそ、泣いても泣ききれぬものがあったであろう〉
そして周五郎は〈声を放って泣いた〉という〈一事のみをもってしても渠が凡百の志士勇傑ではないことが分る〉として左内に最高の評価を与えるのである。
この作品から5年後、周五郎は左内のまたいとこの「喜多香苗」をはじめとする登場人物の目を通して「左内死す」の瞬間に迫る短編小説『城中の霜』を発表している。驚いたことに、そのなかで香苗が語る「左内流涕」の理由は、前作の評伝の全面否定に近い。そして香苗は亡き左内に語りかける。
〈-左内さま、あなたは、少しの偽りもなく、あなたらしい生き方をなさいました、あなたらしい死に方をなさいました、あなたはもう再び、香苗の心から去っておゆきにはなりませんわ〉